ジョルジュ・ムスタキというシャンソニエがいる。
「私の孤独」とか「ヒロシマ」などで日本にもファンは多い。
私が彼に興味を持ったのは、NHKの「フランス語入門」で今月の曲として彼の「ヒロシマ」を毎回オンエアしていたことからだ。
被爆地ヒロシマが早くみんなの意識から消えるようになり、本当の平和がやってきますようにと歌っている。
ちょっと気に入った私は、早速アルバムを購入。
その中に「私の孤独」や「17歳」(もちろん、南沙織の曲とは違うよ!)などの彼のヒット曲も入っていたのだが、その中でも一番「おっ!」と思った曲が「商人」という作品だった。
森や池があり、果物は自然に実り、人々は畑仕事等をして、とても幸せに暮らしていました。
商人が村にやってくるまでは
人はゆっくりと働き、しばしばひと休みしながら自然に生きていました。
ただし、商人が村にやってくるまでは、ですが。
原始共産制を資本主義が破壊したというメッセージと言えなくもない。
そう、商人は人々の作り出したものを商品に変えて行き、人々はその商品に隷属する存在に変質していったというのだ。
その人々さえ、商品化されていったのも事実である。
奴隷商人というのもそのひとつだろう。
商人は商品を買い付け、それを必要な人に一定の利益を乗っけて売り歩いた。
それによって、人々の行動範囲も広がり、集約された産業が次々に産み出されて行った。
それを商業の発達といったり、後には産業革命などと言われて、文明の発展の原動力のように言われるようになった。
商人は、産業発展の助産婦であった。
商人の何が悪いと言うのか?
ムスタキの歌を聞きながら私も考えた。
でもね、人は商人等というものが存在しなければ、購買欲や所有欲や、支配欲などと無縁に暮らせたのではないかということじゃないだろうか。
金などというものを産み出したばかりに、人間性さえ金に置き換えられ、売買されたりしたのではないだろうか。
商人さえいなくなれば、私達はもっと幸せな生活を取り戻せるのではないだろうか。
う?ん、どうなんだろう。
商人=コンテクストなんだと思う。
で、商人の役割がインターネットに置き換えることができたとしたら、私達は又昔のように、静かな生活にもどれたりするのではないだろうか。
必要なものを必要なだけでインターネットから調達できるようになれば(それもきわめて自然に)、商人という常に誰かをたきつけて商品を買わせようとする存在なんかきえてしまうのではなかろうか。
マーケティングなんていう、人を単なる商品買い付けマシーンのように扱う技法なんていうのも消えてしまえばいいのだ。
ふう、何か話が脱線しかかっているかもしれない。
でも、この考え方、ちょっと大事なような気がするので、別の機会にもう少し深めてみることしよう。
ムスタキの「商人」を聞いたことがない人は、一度聞かれることをおすすめする。
segawax、番組で一度とりあげてみてくれると嬉しいのだが。
商人の息子がこんなこと言うのも何やけど、結局、毎日頭に算盤を乗せて生きて行くのは、やはり不純な気がしていややなあ、と思います、安部邦雄