放送がデジタル化されることによって、従来の放送の構造が変わるということがだんだん明らかになりつつある。
テレビ局とラジオ局の差違もほとんどなくなることもわかってきた。
ラジオは音声、テレビは映像と音声という分け方だったが、デジタル化されることにより、音声であろうと映像であろうとデジタルの世界では同じであることが認識されるようになってきたのだ。
放送の中味をデジタルコンテンツというようになってきたが、そのコンテンツの運び方は、テレビであろうとラジオであろうと基本的に同じなのである。
デジタルに変換する時の方式は違うかもしれないが、デジタル化されたものは何も変わらない。
入り口と出口では、元のコンテンツの形になるとしても、その中間では単なるデジタル信号なのである。
つまり、コンテンツがその搬送され方に影響されないで存在するということでもある。
従来の放送局は何を持っていたか。
早い話、電波の周波数を持っていたのである。
そしてその周波数は誰でも持てるものではなく、一部の権利者に独占的に与えられていたのだ。
放送局はその周波数を時間を細切れにすることによってスポンサーに賃借させていたといえる。
しかし、コンテンツがデジタル化されることによって、コンテンツは周波数的制約から解放されはじめた。
途中のインフラが整備されていれば、それはどの出口とも対応するようになってきたのだ。
客のいる出口には、どこへでも出かけます、というわけだ。
後は、どの出口を選択するのが得かということになる。
今までは、圧倒的に既存の放送局を出口にするのが得だった。
しかし、既存局を超えるような報酬さえ与えてもらえれば、コンテンツは簡単に別の出口に向かうようになる。
コンテンツは従来は、放送局が制作していると思われたから、こういう議論はあまりなされなかったが、実際はコンテンツのほとんどは制作プロダクションによって作られるようになっている。
より報酬があり、より魅力的な出口があれば、コンテンツは次々に既存局から逃げ出すだろう。
既存局は、他の出口が格段に整備されるようになれば、自分達の勝ち目がないことは自覚しているはずだ。
だから、放送マンは未来を見失っているわけだ。
デジタル化は、出口を増やす。
その出口が魅力的であれば、ユーザーは容易に既存局を見放すだろう。
今は、過渡期だ。
魅力的な出口とは、例えばどんなものを指すか、明日はその話をしてみたい。
どこの社会にも求められているのは構造改革らしい、構造改革で一番辛いのは既得権者である、革命も起こらないでそんな事態に本当になるのか、私は半信半疑なのだが、あなたはどうかな?安部邦雄