人生は戦いであると学校教育は教える。
少なくとも進学塾などは、明確にそんな哲理が子供達に伝えられている。
君の横にいるものは、すべて敵だ。
人生、一着をとらないとダメだ。
一着を狙わないやつ等、最初から負け犬だ。
負け犬は死ね!
これが単なる立て前であるなら、まだいい。
しかし、本気でそう思っているやつも多い。
同じことをしようとするものとは、競争する。
競争する以上、勝たないといけない。
中学生の頃、書いた小説が当時のノートに残っている。
タイトルは「最後の勝利」。
中学3年生の主人公が、最後の勝利をめざして勉強している。
高校に合格し、そして、大学(エリート校)にも合格する。
大学生である主人公は語る。
私は、まだ人生の途中である。(あたりまえだ)
最後の勝利というのは、まだつかんでいない。(学生の分際で何ぬかす)
でも、私は確実に勝利への道を歩んでいる。(だから、あんたの勝利って何やねん)
これから、どうなるのか誰にもわからない。(ほんまやねえ)
それでも私は戦い続けるであろう。(御苦労さんやね)
最後の勝利めざして。(もうええわ)
中学生がどうしてこんな価値観を持つに至ったのか。
エリートこそが正しい、という価値観に惑わされていたのかもしれない。
ま、そんな40年近くも前の話はどうでもいい。
しかし、勝ち続けることなんてできる人はいるのだろうか。
勝ち続けていると思っていた人間が、50を過ぎて、いきなり敗者になった時、その人の価値観はどうなるのだろう。
そんな人が私の周りに一杯いる。
どこかで、自分と自分のまわりの社会のバランスをとれた人はいい。
自分は社会の中で、ここに位置する。
そしてその位置は安定しており、自分もそこにいることがとても快適だ。
幸せな人だが、人生を勝ち負けで生きていた人はなかなかこんな境地にはなれないようだ。
社会の中に安定して組み込まれることは、結局敗北を認めた上でのことだ、とこの人たちは思ってしまう。
オレはまだまだ負けていない。
会社とか、役所とか、出世争いに終わりはない。
権力欲は死ぬまで続き、そこには敗者を忌避するベクトルが確実に存在する。
我執とでも呼ぶべきもの。
敗者になり、普通の人の中に戻って行けばどれだけ楽かわからないのに。
天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず。
なのに、何故人の上に立ちたがるのか、私達は。
あ、もう時間だ。
結論は又明日。
今日は暑かったなあ、安部邦雄