第一期ディレクター時代 (1976〜1980)
JOBUポップサロン「あなた」(1979〜198?)<パート1>
JOBUポップスパレードの後番組として企画されたのがJOBUポップサロン「あなた」。
当時の編成部長は所感で「従来の発想とは基盤を異にし、内容強化・てこ入れ改編的なものをめざす」と書いている。
ポピュラー音楽中心は変わらないが、毎日ゲストを入れてトークを増やし、より主婦層にアピールするものにするというのだ。
深読みすれば、ヤングターゲットのFM放送で開拓できるクライアントはほぼ開拓し尽くした。
AM放送の主婦層ターゲット・クライアントを引き込むためには、FMもただポピュラー音楽を流しているだけではなく、ハイセンスなトーク番組的な要素を持込み、家庭用品のクライアントにアピールさせようとしたということかもしれない。
これは、ある面では成功したといえる。確かに従来にはなかったクライアントの出稿を獲得できたし、聴取率もそこそことれたと思う。
しかし、FMのAM化という批判も生まれてきた。ただ音楽をかけてくれるだけでいいのに、又AM局が1局増えただけと言う批判だ。
番組内容を説明しよう。
メインパーソナリティに奥田博之さん。ラジオ関西(後のAM神戸)を辞めたばかりで、日本テレビ系(よみうりテレビ制作)の「2時のワイドショー」の司会者にも決まっていた。
アシスタントに伏見昌子。大学を出たばかりのタレントの卵。頭のいい子で、後にNHK等で活躍していた。
時間は朝9時から10時50分だった。
中に3つの5分セグメントがあり、各々「おしゃれのメヌエット」「ジョイフル・クッキング」「ハウジング・レポート」というタイトルだった。
「ジョイフル・クッキング」は結局スポンサーがつかず、種もつきたのか、すぐに灰谷健次郎さんの出演する文化放送からのネット番組に変わった。
灰谷さんは、当時「太陽の子(てだのは)」とか「兎の眼」等で人気が出てきた頃だった。元小学校の先生で淡路島に住んで、野菜等も作っておられた。
本来なら番組のゲストはお断りするのだが、これだけは私の番組がネットでも流れているので、お断りしづらいということで、一度だけゲスト出演してもらった。
ゲストの話は次回にまとめてお話しすることにしたい。
「おしゃれのメヌエット」は大丸提供で、当時専属アドバイザーの大内順子さんがファッションのアドバイスを毎回されていた。「ハウジングレポート」は私の担当だったので、別項で説明する予定。
番組の制作スタッフはプロデューサー1人(但しディレクター兼務)、ディレクター4人、構成作家5人、ミキサー1人、アシスタント1人、だったと思う。
このスタッフで月曜日から金曜日、毎日選曲をし、ゲストを入れ、番組を進行していた。
私は、正直言って今回の編成替えには批判的だった。
FM局がこんなトーク番組を作ってよいのかと会議でも主張したのだが、例の大島さん(当時制作次長)が、とりあえずやってみて、ダメならそこで考えればいいと私をたしなめた。(私はよく大島さんから生意気だと怒られたものだ。本人は覚えているのか、いないのか)
ディレクターの実名を入れると、プロデューサー兼務で有賀氏、先輩の豊田氏、同じく藤岡さん、それに私、そして新米ディレクターの笠井君。
この5人が各曜日を担当した。ただし、半年後には豊田・藤岡のお二人は担当をおやめになったと思う。
(1年後かもしれない。少しうろ覚え。)
しかも、ディレクターの補充はなく、残った3人でベルト番組を作れというお達しになった。これは正直私にはきつかった。(私が二日、新米君が二日、有賀プロデューサーは一日)
私は、仕事人間だから、やれと言われたことはどんなことがあってもやりぬく力はあったし、自信もあった。
しかし、この番組は色々と大変な作業が多過ぎた。
誤算だったのが、プロデューサーが全く新人ディレクターの面倒をみなかったこと。御本人は比較的余裕があるはずだから、ゲストのブッキングから、様々な調整からおやりになるだろうと思っていた。
ところが、何がご不満なのか知らないが、アパシーそのものの仕事のやり方をされたため、ただでさえ忙しい私に新人君の分が回ってきたことだ。
そりゃあ、私も忙しいからできないと断ればよかったのかもしれないが、何でも試練として受けとめよと教育されている私にそんなことはできなかった。
私は必死になって、その仕事を次々にこなした。その間、色々なことがあったが、ここでは書かない。ただ、どれだけ辛かったか、今こうして思い出すのも苦痛なくらいである。
番組はおかげでリスナーやスポンサーには好評だった。今までとは違うクライアントもつかむことができたし、数字はそこそことれていた。
私は奥田博之さんとは、大変なお近づきになれたし、一緒に5月のゴールデンウィーク、沖縄まで遊びに行ったりもした。(もちろん自費です、念のため)
ゲストとの打合せのため、夜、奥田さんと神戸まで行き、次の朝、生があるにもかかわらず、三ノ宮の奥田さんの行きつけの店を梯子させられたりもした。
とにかく、タフな奥田さん。しかし、精神的に疲れ切っている私には、朝まで飲み歩くのだけは勘弁してほしかったのが正直なところだ。
結局、奥田博之さんをFM大阪として掌握したのは私だった。これは本来プロデューサーの仕事であり、私のようなヒラの安月給がやる仕事ではない。
でも、実質的なプロデューサーは俺だと思って意地になってやっていた。ほとんど会社には評価されなかったが、自分のプライドの為に働いたのだと今の私は思う。
私がその頃どれだけ仕事に忙しかったかは、次回以降に追々出てくるであろう。
パート2は主にゲストコーナーについてとりあげる。