第一期ディレクター時代 (1976〜1980)
デデと七人の探検隊(1977〜1978)<パート3>
■デデ七余話
野田君、光延、安部のトリオは、第2期ディレクター時代にも登場する。
私の代表作「ラジオ少年派」はこのトリオあってこそだ。3人ともFM局の黎明期を知っていた。ラジオへのノスタルジーも共有していたと言える。
さてデデ七は78年の秋に終了したが、こぼれ話を今回は掲載する。
スポンサーはアルバイト情報であることは第一回に書いたが、私は毎週この雑誌にエッセイのようなものを連載していた。
何冊かは今も保存しているが、その挿し絵を書いていたのが、何とあの『いしいひさいち』先生なのである!
毎回私の原稿を読んで、ささっとイラストを書いていただいていたのだ。今から考えると恐れ多い。(といっても彼は私より一つ年下だが。)
彼の出世作『バイトくん』もこの雑誌に連載されていた。(原題はOH!バイトくん)
おかげで私は当時誰以上に、いしいひさいちファンになったのだが、彼は全然覚えていないだろうなあ。
次はディック・セント・ニクラウスの話。
エピックソニーの洋楽宣伝担当だった山本正実君が、ある日外盤屋(当時は輸入盤を扱っていた業者をそう呼んだ)で話していたところ、一日に10枚以上も出ているレコードがあると言う。
それが、ディック・セント・ニクラウスとビル・ヒューズ(90年代にビリー・ヒューズの名でドラマの主題歌になり、大ヒットした。)だった。
で、そのレコードを見ると、レーベルが何とEpicと書いてある。何だ、自分の所じゃないかと思った正実君、早速このことを本社に問い合わせるが、ほとんど相手にされない。
大阪ではそうかもしれないけど、そんなものを売っている場合か。そんな反応だったという話だ。
当時は、エピックがソニーから別れて間もない頃だった。洋楽ではボストンが、邦楽ではレベッカが宣伝費を膨大にかけた割には大コケだったと思う。
本社は危機感いっぱいだったはず。やることは他にもある、大阪の一部で売れているからといって、すぐにレコード発売できる余裕はないんだ。ま、そんなところだろうか。
普通はこれで終わりなのだが、正実君の凄いところはここから。
彼は、私達にこの間の話を交え、大阪だけでこのアルバムを発売したら皆さん乗っていただけるかと説いて回った。
OK、OK、お前がその気なら、ばんばんやってやる。俺達の底力を見せてやるぞ!
関西の主だったディレクター、音楽関係者が決起集会でも開きそうな勢い。
そして、めでたくこの2枚のアルバムは関西限定発売という条件付きでリリースされ、あっという間にチャートイン。大評判になった。
少し遅れてだが、ディック・セント・ニクラウスは余勢をかって全国発売にもなった。
まさしく、叩けよ、さらば開かれん、愚公、山を移すの譬え通りの世界である。
殊勲甲といえば、文句なくエピックの正実君である。
やらなくてもいい仕事を勝手に背負い込み、本社の反対を何とか説き伏せ、関西限定とは言え発売にこぎつけたのは立派のひとこと。
そう簡単にはできないことだ。(あなた、できます?)
もう一つ彼の偉いところは、本来の仕事を人並以上にやりながら、このムーブメントを起こしたことである。
プライオリティは毎月やってくる。そのプロモーションはきっちりやっていた。自分のやりたいことだけをやっていたわけではないのだ。
自己中心主義者が多いこの時代、彼のような人は貴重であった。私は彼の生き方をとても評価し、憧れたものだった。
デデ七のスタッフはもちろん皆この運動に参加した。番組は既に終わっていたが、心は一つだった。美化し過ぎかもしれないが。
もう一つ。
80年、私は制作から営業に人事異動された。この間の話は別に稿を改めるが、その時に業界の人たちが「アベソダ会(安部邦雄を育てる会)」を作って、私の人事異動を祝ってくれた。(気を落とすなという励ましの会ともいえる。)
皆デデ七のイベント仲間だ。今回の写真はその時の模様。
業界バンド(石井ちゃんバンド?)をバックに、私のライブがあったわけだ。歌っている曲は、ハニーカムズの「ハブ・アイ・ザ・ライト」だと思う。
これも、デデ七あればこそである。こんな幸せなディレクターはそうはいないと心から感謝している。
(この稿終わり、次回は杉田二郎の「COME IN MUSIC」)
1-06) デデと七人の探検隊 (1977〜1978) <パート2>
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安部邦雄全仕事
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1-08) サウンズ・ウィズ・コーク 「COME ON IN MUSIC」(1978〜198?)
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