
第一期ディレクター時代 (1976〜1980)
デデと七人の探検隊(1977〜1978)<パート1>

私が手掛けた初めての本格的スポンサード番組。 それが「デデと七人の探検隊」。通称デデ七(しち)。スポンサーは日刊アルバイト情報の情報センター。
当時はアルバイトニュースと覇を競っていた。但し、関西地区の話。当時はまだリクルートはアルバイト情報誌を出していない。
放送時間は日曜日午後6時からの55分。第一回目にとりあげた「SUNTIME IN MUSIC(後にMUSIC TRIP)」の後枠である。
当時は番組枠でディレクターを割りふっていた。この後の番組もやはり私担当だった。(コカ・コーラ社提供の「COME ON IN MUSIC」。別項参照。)
この番組については、1980年発行の『音づくり、この10年(FM大阪10周年記念出版)』で4ページに渡って掲載してある。
ほとんど転載になるがお許し願いたい。尚、この本は非売品なのであしからず。
デデ七は昭和52年3月に始まり、53年9月に終了している。
1年半しか続かなかった割に、業界では大変注目された番組だった。
私のディレクター修行のへき頭を飾った番組として未だに愛着がある、と当時の私は書く。
私には2期のディレクター時代があるのだが、第1期の代表番組といえる。(ちなみに第2期は「ラジオ少年派」)
当初はアメリカの音楽状況に焦点をあわせた、「ビート・オン・プラザ」(当時のFM大阪の人気番組)の日曜版みたいなものを想定していたようだ。
仮題に「ビート・オン・サンデー」とか「ホット・ポップス・アクション」等とあった。
実にセンスのないタイトル。(つまり、元々の企画は私が書いたのではないわけですね。)
それを私は「デデと七人の探検隊」と名前に変え。何か分けのわからない番組に変えてしまったわけだ。
何しろ、この番組、制作費も大してないくせにキャストとスタッフは8人もいた。
当時、3人とか4人でやるのが普通だったから、その倍である。ついでに言うと、後半では何とスタッフは9人になっていた。(影のスタッフはもっといたはず。)
初期のメンバーを紹介しよう。
出演に、デデこと川村尚(現川村龍一、MBSラジオのワイド番組キャスター)、新人でバイリンのジーン長尾(後にFM802の人気DJ)。
構成に、松本勝男大先生(クラシックの大家でもあった)、白藤丈二(福田一郎氏の弟子、当時レコード大賞審査員)、江原一雄(ソウルの江原と自分で言っていた。医者の息子)の3人。
何故3人もいるのか、最初は私もよくわからなかった。
制作スタッフは、私がディレクターで、アシスタント(ミキサー兼務)が最初にも出て来た光延国紀、それに何故か新米の私のお目付役ということで、先輩社員の谷口氏、通称ビーバー。
そりゃ新人のディレクターに、スポンサードであり、えらい先生3人の制御しながら、アメリカの音楽事情の最新情報を紹介するなんて、できるとは思えなかったでしょうなあ。
タイトルはスタッフでワイワイ言い合ってつけられたのだが、勿論基本的には私のネーミングである。
アリババと40人の盗賊の関連もあるし、七人の侍の影響もあったんだと思う。
前掲書では「題名で人の気を引き、少しでも聴取率をアップさせる」と書いてあるが、数字は大したことなかったような気がする。
さて、番組の内容。
前出の構成の先生が順番で番組を担当。つまり、3回に1回ずつ順番が回ってくるわけだ。
第一回目は「ベイシティローラーズのどこがいい?」、最終回は「今、奏でる悲しみのラストワルツ」。
時代ですね。
他に思い出すのは「何故、キッスは化粧をするの?」とか「アサイラム収容所解放作戦」「夏だ!海だ!サーフ・ロックだ!」等。
理屈っぽいのは松本先生。ミーハーぽいのは白藤丈二氏。
特に夏だ!海だ!××だ!シリーズは白藤氏のおはこになった。
江原ちゃんの思い出作は「ストリップ・ミュージックのすべて」。彼とはタブー挑戦シリーズというのをやっていた。
元々、彼が「ストリップの音楽はもう『タブー』ばかりとちゃうよ。今はディスコ系がメインや。ドナ・サマーとかボニーMがばんばんかかっている。一遍調べに行こう!」等と言う。
そんなん、取材の許可とれるの?と聞くと、「大丈夫や、知り合いもおる」といって胸をたたく。
で、準備だけこちらでしていると「あかんは、うまいこといけへん。」と言って来た。
その筋の人に了解とれない等と言う。そんなん最初からわかってたことやろ、と諦めるつもりが、本人どうしてもこのプランで行きたい、安部ちゃん何とかして!と泣きすがる。
気が進まないが、その筋の方に接触、某劇場を紹介してもらって、当日デデ(彼もよく来たなあ)も連れて劇場迄取材に。
あるところで迎えの車に乗り込む。もちろん、とんでもないアメ車。(当時はその筋の人の乗り物はベンツではない)図体はでかいが、中がやたら狭い。
とにかく、会長に挨拶してくれと言われて、事務所へ。和紙の豪勢な名刺をいただく。やはり会長だけあって風格のある人だった。
次いで、劇場で社長に面会。こちらはとても社長と言うタイプじゃない。本人も「パクられ要員」なんて自嘲気味に話していた。
それから、舞台をしばらく見学。スタッフは目を白黒。江原氏だけ、「すごいすごい」を連発。こらっ!音楽の取材はどうなった!(当時は、まな板大はやりのころです)
楽屋に行って、いよいよ踊子さんに取材。ほとんどの踊り子さんが、「音楽なんて、うち知らん」と言って、裸のままうろうろされるだけだったが、一人だけ、実に音楽のことを良くわかっているお姉さんがいて、ずっとその人だけにインタビュー。九州なまりの苦労人という感じのお姉さんだった。
選曲はどうするのか、どこで音楽を聞くのか、どこでレコードを買うのかなどを取材。レコードは全部自分で買って全国を持ち歩くそうだ。
近ごろは踊りを全然見てくれない、だから曲がかわいそう、などと話しておられた。
有意義な話を聞けたなと思っていたら、先ほどの社長登場。
すまんけど、谷ナオミさんも取材してくれんか?と言われた。
当日のメインショーが谷ナオミ劇団のSMショーだった。立場上、取材してもらわないと顔が立たないということだった。
で、1時間あまり、喫茶店で取材。音楽とは何の関係もない話を聞いた。
結局、そのテープは全面的にボツになった。谷ナオミさん、誠に申し訳ございません。
エピソードを書くと本当に長くなる。この続きはパート2で。