第一期ディレクター時代 (1976〜1980)
大関ポール・モーリア・ポピュレール(1976〜?)
日曜日の午後1時55分〜2時の5分番組。私の初めてのスポンサード番組である。
提供は大関酒造。スージー・クアトロが「サケロック」なんて歌ってコマーシャルをしていた。(覚えてますか?)
これも制作部に配属されてから、間を置かずに私に与えられた仕事だ。
上司の大島次長(現専務取締役・写真)が、きれいな字で書かれた企画書を私のデスクに置き、ポール・モーリアの曲だけで5分番組を作れるか?と聞いて来られた。(大島さんはとてもきれいな字を書かれた。当時はワープロなんてないから企画書はみんな手書き。一見しただけで、誰の企画書かわかるいい時代だった。ただ、悪筆の人には辛い時代だったかも。)
企画書をさーと読むと、内容はほとんど決まっていたので、「できると思いますが」と答えると、タイトルは仮題なので、いいのがあれば変えてもいいよと言われた。
私は中学生の頃から詩人に憧れてあちこちに投稿していたこともあり、こういう類いのタイトルをつける時にはセンスのあるものでなければ納得できないタイプであった。
その時の仮題はもう忘れたが、「ポール・モーリア愛の世界」とか「サウンド・オブ・ポール・モーリア」という、誰でも考えられそうなありきたりのタイトルだったと思う。
で、新人ディレクターはここぞとばかり考えた。(こんなのは思いつき一発の世界だから、そんなに考え込んだわけではないが。)
ポール・モーリアはフランス人だから、やはりタイトルはフランス語のほうがいいだろう。
といっても、当時フランス語は今以上に日本には浸透してはいない。
少しは知られている言葉で、ポール・モーリアと親和性のある言葉にしないといけない。それは、何か?
当時スリー・ディグリーズという黒人女性3人組がいた。そのヒット曲に「シャンソン・ポピュレール」というのがあるのを思い出した。
ポピュラー・ミュージックをフランス語風に言うとこうなる。
これだったら、意味はわからなくとも音楽ファンなら知っている。それにポール・モーリアをつければ韻も踏んでいるし、語感もいい。
で、提出したタイトルが「ポール・モーリア・ポピュレール」。前も後ろも韻を踏んでいて、無茶オシャレー!
大島次長も「ふーん、いいじゃないか。」と意外そうに感心していたのを思い出す。
自慢話はこれぐらいで。なにしろ、私のディレクター話はこういった自慢話がほとんどになるはずなので、ちょっとだけ自制することにする。
毎回、ポール・モーリアの曲をかけるのだが、番組の前に30秒、後ろに30秒のコマーシャルをはさまないといけない。
5分番組とはいえ、ステブレが1分あるため、実質的には3分30秒程度で終わらないといけないので、CMを抜くと中味は2分30秒。これにタイトルコールと前後に提供クレジットも必要だ。
テーマ曲なんてかけてられないので、タイトルコールはエコー(今はリバーブなんて言うが)をバンバンにかけ、提供クレジットだけはちょっと素にしてなんていう方法論を駆使していた。(大層にいうほどのものではないが。)
しかし、当時のエコーてバネ・エコーという奴で、テレコ2台を使ったテープエコーと大して変わらなかった。(意味のわからない人はサイトに質問して来てね。)
技術の進歩は凄いものです。
とにかく、こういう劣悪(?)な環境の中で、ポール・モーリアの曲をなるべく長く聞いてもらいたいと努力したものだ。
ただ、ポール・モーリアのヒット曲の中で「エーゲ海の真珠」だけは一度もかけてはいない。4分以上もあり、一番いいところで、フェイドアウトせざるを得ないからだ。
ま、おかげでポール・モーリアには当時相当精通した。ポール・モーリアのことなら安部に聞けと言う感じだったが、今となっては何にも覚えていない。
空しさの散り残してやおらが春。
出演者は初代が樋口竜子さんだったが、1年も立たずお腹が大きくなって降板。その後を紀平真理子(通称、きんぴら。途中で真理に改名。ジャズピアニスト大塚善章氏夫人)が担当した。この人のことは話すと長くなるので、又どこかで書くことにする。
尚、この番組は私が1980年に営業に配置転換された後も、同期入社の吾が友、巽君によってしばらく続いていたと思う。
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