第一期ディレクター時代 (1976〜1980)
JOBUポップス・パレード(1976〜1979)
JOBUはジョブと呼ぶ。コールサインがJOBU−FMだったため、開局時からしばらくはワイド番組の頭にはたいていこのJOBUがついていた。
制作部に配属されていきなりやらされたDJ番組がこのJOBUポップス・パレード、略称JPP。
DJやりたさにFM局に入りたい人が多い中、全然やりたくなかった私が無理矢理やらされた番組だ。
それゆえいい思い出はほとんどない。辛い思い出なら幾らでも。まるで、ばんばひろふみ「サチコ」の世界そのもの。
午前8時30分〜11時、月金のベルト番組で、私は水曜日の担当だった。
やったこともない私のお目付役ということで、相方の女性DJに真理ちゃんがついた。
「SUNTIME IN MUSIC」で一緒に旅行に行った先輩アナの藤田真理子さんである。(写真)
前項では女性の鏡のように書いた真理ちゃんだが、こと喋りとなるとプロそのものになる。私なんか喋り手としての自覚はまるでないと来ているから、何度も先輩の愛の鞭を受けた。
片ひじついて喋っていたりしようものなら、思いきり手で叩かれた。勿論、オンエア上ではそんなことおくびにも出さない。リスナーは普通のおしゃべりを楽しんでおられただろうが、私なんか毎回戦々兢々としていた。
とにかく喋る姿勢が悪いということだけで、DJ失格なのだそうだ。ごもっともでございます。
私はいつも先輩の言葉を金科玉条のように聞いて一所懸命仕事をこなしていた。そりゃ楽しいわけはない。
1年半後、真理ちゃんは番組をはずれ、私は新しい女性DJと組むことになった。それが、何故か前項で書いた福島厚子、アッコなのである。
ついこの間迄、ディレクターとタレントの仲だったのに、いきなりDJのパートナー。やりにくいったらありゃしない。
ぼろを出さないように努力するしかないわけで、とてもとても楽しいなんて気分にはなれず。
FM大阪は基本的にワンマンで番組を作れという方針だったので、この番組もDJが全て操作する。いわゆるアメリカのDJ形式である。
会社ではこれをアナプロミキと呼んだ。アナウンサー、プロデューサー、ミキサーを合わせてアナプロミキと言うんだと会社の先輩が得意げに言うので、何でプロデューサーなんだ、ディレクターでしょと皮肉を込めて言葉を返したら、後々まで思いきり憎まれた。
私はとにかく生意気だったようだ。問題児として、ずっとマークされていたような気がする。(ひょっとしたらOBとなった今でもその扱いは同じかも)
思い出を少し。
真理ちゃんとは一度、正月の時にこのJPPの生放送をしたことがある。正月なんて誰も生放送なんてしたくないのだが、仕事だから仕方がない。
今や、テレビ局が正月から生放送をバンバンやっているが、スタッフの本音は絶対にやりたくないに決まっている。
私は、何度も正月に出社しているが、正月ぐらいは家にいたいと何度思ったことか。
閑話休題。
真理ちゃんと、番組をやりながら、終わったら天満の天神さんに初もうでに行こうと約束。その時、真理ちゃんは着物を着ていたと思うが、今迄DJやっていたもの同士が、デート気分で初詣に行くのはなかなか新鮮であった。とても楽しい時間を二人で過ごすことになるのだが、趣旨と外れるので詳しいことは省略。
番組内で生コマーシャルをやる場面があった。梅こぶ茶をちょっとブレークと言って、実際に飲んでみるのだが、私はあまり好きではない。シソの味が苦手なのだ。
だから、時々普通のお茶を飲んでごまかした。今では、こういうのはシズル感があるといって好評(永谷園のお茶漬け等)なのだが、当時は憂鬱な仕事の一つだった。
憂鬱と言えば、私は大抵年に一回は風邪で高熱を出す。その時にこのDJの担当日があたってしまい、39度の熱を押して、うわごとのような喋りで仕事をこなした。
以来、私は番組で出演するのにとても臆病になった。人間はいつも健康ではない。いつもパーフェクトを求められるような出演者には絶対になれないなとつくづく思ったわけである。
1-01) SUNTIME IN MUSIC (1976〜77)
|
安部邦雄全仕事
|
1-03) 大関ポール・モーリア・ポピュレール (1976〜?)
|