第一期ディレクター時代 (1976〜1980)
SUNTIME IN MUSIC」(1976〜1977)
番組自体は、夏に合わせたハワイアン中心の音楽番組。企画はもちろん私ではない。私はこういう当たり前の番組を作るタイプではなかった。
放送時間は日曜日の午後6時からの55分間。
出演は、当時新人タレントとしてデビューして間もない福島厚子。大型タレント(身長が?)として嘱望されていたが、今はどうしているんだろう。
何をかくそう、私のディレクターとしてのスタート番組である。
右も左もわからない、新米Dを一から教えてくれたのが、アシスタント契約の光延国紀君。
彼は、これから10年あまりに渡って、私の貴重な制作スタッフとして活躍してもらった。(社員がバイトに仕事を習うのは今でもよくあることだが、私はあまりこういう現象を好ましいとは思わない。)
年令は確か私とあまり変わらなかったはず。
FM大阪では、開局(1970年)の時からバイトとして勤務していたため、実績的には私の先輩にあたった。
彼一人でも十分番組は作れるのだが、会社は制度上バイトではディレクターになれなかったため、立場はいつもADだった。
FM大阪の番組制作は基本的にディレクターがミキサーを兼務する。FM局は一人で何でもするのが基本だと入社時に言われた。
そんなものかと思ったが、私自体は、ディレクションというのは集中が必要だと思っていたので、この方式は好きになれず、制作費に余裕があれば、たいていミキサーを別に雇うことにしていた。
で、この番組も、お手本を見せてもらうという名目で、光延君にミキサーをよくやってもらったと記憶している。
番組が始まったのは、76年の7月からだったと思う。私の教育係のおひとりだった関戸さん(現東京支社長)という方が、企画され作られた夏だけのハワイアン番組の手伝いと言う形でディレクターの見習いをしていたというのが本当だろう。それが9月になるので、ハワイアンじゃまずいということで「MUSIC TRIP」というタイトルにし、旅の情報を紹介する番組にした。曲もイージーリスニングに変えたのだが、9月ということで、ジャック・ディメロのイギリス民謡(埴生の宿とか、故郷の空とか)をよくかけたたものだ。
初めて電話で宿に取材をしたのもいい思い出。ああ、番組ってこういう風に作るんだとひとり納得する毎日だった。
取材先は、浜名湖近くの宿。メロン風呂というのが人気と新聞に出ていたので、詳しいことを聞こうと電話をした。
取材なんて初めてだと、これだけの事でも胸がドキドキ。宿の方が親切に答えていただいたので、とても安心できる取材だった。
メロン風呂というのは、メロンの間引き(摘果というのかな)した商品にならないものを風呂に浮かせるというものだったと思う。
是非、実際にお越し下さいといわれたが、制作費がないため断念したような気がする。
この番組はサス番組(つまりスポンサーがついていない)だったため、77年3月に終了。 打ち上げは やはり旅番組らしく温泉あたりでということになり、山陰地方の浜坂温泉郷、七釜温泉に行くことになった。
田圃の中ののどかな温泉である。(今はもう少しにぎやかかも。)
メンバーは、タレントの福島嬢と光延君。ゲストとして、藤田真理子(真理ちゃん)先輩と東芝EMIの新人プロモーター瀬古ちゃんが加わった。
真理ちゃんは、アナウンサーとしてFM大阪に入った私より一つ上の面倒見のいい先輩。
東京にいたら、確実にイエローキャブにスカウトされたはずの女性だ。(うーん、表現が難しい)
真理ちゃんの凄いところは、当日の全員の弁当とデザート、飲み物など、すべて自分で用意してくること。こういうことをするのがとても楽しいという。この後も、何度かお世話になった。この人を女性の基準にすると、今の女の子は、全員失格である。
東芝EMIの瀬古ちゃんは車の運転手として連れていった。放送局のディレクターと旅行できるなんてそれだけでも会社に評価されるよ、等と御為ごかしに言って誘ったのだが、途中ネズミ捕りに引っ掛かって、高い罰金を払わされた。
言ってくれればみんなでカンパするつもりだったが、何も言ってこなかったからほっておいた。
未だに、その時の話を持ち出し、薄情ものと文句を言う。うるさい奴だ。大体、山道をこうすれば速く廻れる等と得意げにスピードを出していたのはあんたじゃないか。
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安部邦雄全仕事
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1-02) JOBUポップス・パレード (1976〜79)
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