インターネットはフリーネット
さて、前回は私の配信ビジネスモデルを具体的に展開してみた。
とりたてて反論もなかったようなので、先に進みたい。
今回はインターネットはタダでもいいんじゃないかという話。
インターネットはフリー(ただ)?
インターネットは軽ければ軽い程良いというのが私の意見だった。
重いものをテクノロジーで軽くする、それがIT革命そのものだと私は思っている。
そこで、皆さんはこう私に問いかけるだろう。
ではインターネットを使って、どうやって儲けるのだ?
重いものを軽くした投資をどうやって回収するのか。
◎ビジネスモデル特許をとって回収するのか。
◎システムに流れるコンテンツを売って儲けるのか。
◎著作権関連で利益を確保するのか。
◎インターネット広告費でシステム全体を維持するのか。
では、各論点についての私の意見である。
ビジネスモデル特許は過渡的権利
ビジネスモデルの取得により、将来的に自分達の知的所有権を保持しようというのが、ビジネス界の常識になりつつある。
しかし、これはインターネットの未来をイメージする人々から批判されていることでもある。
インターネットは人類の普遍的な共有財産であり、何人たりとも独占すべきではないと言うのである。
デジタル・デバイドとも関連するが、先進国が可能性のあるデバイスを独占し、後から参入したものに使用料を義務付けるのは、著しく公平を欠くという趣旨から来ている。
インターネットにはそれゆえ、情報の独占を禁止し、知識をオープンにすることが求められている。
リナックスなどは典型である。
フリーウェアとして情報を公開し、能力のあるものは、それを改良し、より使いやすくする。
ただし、改良したものはそれ自体もフリーウェアにするべきだ。
それが、最初のプログラムを作ったものへの礼儀である。
だから、既にある技術を無料で使用している以上、それを使って開発されたもので自己利益を追求するなど、罰当たりもいいところ。
インターネットにおいては、ビジネスモデル特許などというのは申請してはならない。
そんな特許は一切認めない。
これが、インターネットはフリーネットという意見の一部である。
その意味では現在もてはやされているビジネスモデル特許は、過渡的な権利として存在するだけかもしれないのだ。
コンテンツを売って儲ける?
コンテンツは商品だ。商品経済においては、それを金品に替えたり、他の商品と交換するのは自然なことである。
ただ、コンテンツを売る主体はあくまで生産者であるというのが、インターネットの基本である。
従来のような中間業者は一切いらないわけであるから、コンテンツを売って儲けるのは生産者だけであって、システムを構築したものが利益を得るのは筋違いである。
システム構築者はシステムが商品である。それゆえ、そのシステムを利用してもらって利益を出すしかない。
フリーマーケットでいうと、いわゆる場を提供する(市を立てる)機能であり、生産者や消費者から、出店料、入場料をとる形になるだろう。
良いコンテンツを持っている人(優良生産者)を呼込むインセンティブを研究開発し、より高い購買能力を持つ人(優良消費者)を引き付けるデザイン力を養うこと、それが、私の言うミュージックデザイナーに要求されることでもある。
著作権を確保し、利益を出す?
著作権は大変デリケートな問題だ。
インターネット時代に法制度が追い付いていない。早急に新しい著作権法を策定し、勝手な著作物の利用を制限すべきだという意見がマスコミなどで喧伝されている。
私は、次のような意見に賛成する。
「僕らが著作物を作ったとして、それは文化に寄与する行為であって、喰うためにそれを守っちゃいけないな、というのがあるんです。」(1998.09.21hotwired 牧野二郎氏インタビューより)
著作者の権利が保護されるばかりではなく、それを第三者が利用しやすくするということが重要なのだという。
「技術者がフリーウェアを公開してくれたように、文学者も音楽家も芸術家も、フリーウェアとして自分の作品を出していく。そうすることで法律を超えた新しい文化が育っていくような気がするんです。」 (同)
※詳細記事は以下のアドレス参照
http://www.hotwired.co.jp/speakout/interview/980921/index.htmlフリーウェアとして音楽・iを提供する。これは確かに私も理想だと思う。
今の音楽業界は著作権を人質にして、利益構造を作り上げている。
インターネット時代は、この利益構造自体も突き崩すだろうが、当面は音楽配信事業にとって、著作権はやっかいな壁として存在するだろう。
しかし、時代の流れは著作者の人格権を保証した著作権のフリー化に向いていると思われる。
その意味では、著作権の確保はさほど重要でなくなる可能性が高い。
インターネット広告費の行方
インターネットの広告費が今後減少するであろうとは誰も思わない。
今のテレビの広告費の相当部分がインターネットにシフトするであろうとほとんどの人は思っているはずだ。
インターネットはテレビの代わりができるが、テレビは今のところ、インターネット以上の存在にはなれそうもない。
テレビはインタラクティブな存在ではない。それゆえ、未来型情報産業としては衰退せざるをえない。
インターネットに広告費がシフトするとどうなるのか?
皆さんが見ているインターネット広告のほとんどはあまりにもチープだ。貧乏クサイ。
それゆえ、今程度の水準の広告が、テレビの広告を超えるなどと思ってはいけない。
インターネット広告はさらに進化する。
要は、ユーザーに自分の作った商品を買ってもらえればよいのだ。より、セグメント化された広告が主流になるだろう。
具体的なイメージを今描くのは難しい。
例えば、音楽産業で考えてみよう。
それぞれの曲にスポンサーがつく。スポンサーのサイトヘ行けば、タダでダウンロードできる。
リンクしておけば、色んな音楽がいくらでも無料で手に入る。
義務は、各スポンサーのサイトに行くことだけ。
別に、スポンサーの広告を見る義務はない。ただ、ちょっとスポンサーに自分を登録することは必要かもしれない。
曲は勿論、スポンサーのイメージに近いものになる。曲の好みからユーザーをセグメント化できる。
これも立派な広告費である。
音楽配信事業はバラ色か?
以上を読んだ方は、音楽配信事業がそれほど、未来のある事業だと思われなかったかもしれない。
しかし、今迄の構造の上に乗っかった事業は、それがどんな事業であれ、インターネット時代に確実な未来が描けるわけではない。
バラ色だといえば、すべてがバラ色である。
要は時代に我々一人一人がついていけるかどうかなのだ。最適化されたシステムを構築できるかどうか、それが我々のこれからの課題であると私は思う。
次回は、こういった未来を拒否し、既得権益にすがる業界を特集する予定。
00.8.21 Kunio Abe
ハハハ、ビジネスモデルは過渡的権利だと言い、インターネットは共有財産でそこから作られたものは独占してはいけないといいながら、私達は先日DTRPSの特許を申請した。皮肉ですね。
これは他者が勝手にマネをして、逆にその権利を主張されない為に申請したわけで、儲けようと言うわけではありません。
つまり、プロテクトのための申請です。御了解下さい。
さて、前回の続きなので以下の業界話もアーカイブ。
<業界ワンポイント>(その7)
アーチスト人気論「GLAY」の場合(第3回)〜人気三年説〜
前回は、音楽業界の仕掛けはカツオの一本釣り漁の仕掛けに似ているという話だった。
さも、餌があるように見せるために、船から放水する。そうすると、カツオは捕食モードに入ってしまって、なんでもかんでも口に入れる。
ガバガバ釣れる、と書いた。
それゆえ、音楽業界も、これと同じような方法論をとれば、音楽ファンはどんどん集まってきて、ガバガバ儲かると述べたわけだ。
ではその方法論、即ち、ファンの群れ(マーケット)に対して水をまくとは具体的にどうすることなのかを書いてみよう。
わかりやすくするため、宇多田ヒカルの例を出してみよう。
宇多田ヒカルは元々大変才能のあるアーチストだった。発掘者はそれを認識していた。
彼女の母は藤圭子だ。これで、マスコミ対策はOKだ。パブリシティにこれほどの味方はいない。
彼女は帰国子女だ。それゆえ、先進的な女性のイメージが保証される。(馬鹿っぽいコギャルではない。)若い女の子の憧れの対象になる。
R&B風の女性ボーカルがトレンディだった。彼女はそのトップを走る能力がある。
そして、彼女のレコードが発売された。
そこで、「神の見えざる手」が働いた。
CDが在庫払底したのだ。つまり、どの店にも売り切れて存在しない。
それが1週間以上続いた。ファンの飢餓感は沸騰した。
これが「神の見えざる手」なのだ。
おかげで、業界はお祭り騒ぎ。こんなにスゴいアーチストはいないと煽りまくった。
結果が800万枚を超える売上げ。レコード会社としては大いなる誤算である。(本当は、レコード担当者は欠品したことに営業からこっぴどく締゜上げられたはずだ。結果オーライなだけ。)
では水をまいた所とはどこか。
一言でいうと、マスコミ対策の成功だ。パブリシティが死ぬ程出た。
しかも、プラスイメージばかり。(上記の通り)
本人はテレビに出ないから、ますます情報のひとつひとつの価値が上がる。しょっちゅうテレビに出ていると映像情報で満腹になるが、それがないため、ほとんどのファンは飢餓感が募るのである。
800万という数字は、人の努力だけでできる数字ではない。
それゆえ、彼女は二度とこの数字をこえることは出来ないだろう。
(昼は人が造り、夜は神が造ったという箸墓古墳と同じ構図かな?)
では、GLAYの場合は。
GLAYの水撒き作業は大変である。
20万人動員コンサートとかGLAYバスとか、ジェット機のGLAY号とか。
でも、これが大量のパブリシティを産むのである。
マーケットにとりこまれたフォロワー達はこの渦の中で、自分の価値観を大いに揺さぶられ、GLAY関連なら何でもかんでも食べてしまうのだ。
CDもガバガバ売れ、業界は万々歳となる。めでたしめでたし。
ところが、このガバガバ行為は残念なことに3年程しか続かないのである。
一言でいうと、ファンはその間にそこそこ満足してしまうのである。
これが、人気3年周期説だ。
社会学用語でいう、通過儀礼という概念がこれに関連してくるのだが、今からウダウダと理屈を並べると長くなりそうなので、詳しくは又次号。
皆さんの御意見・御感想をお待ちしております。