今日、大阪の地下鉄に乗っていたら、女子大生とおぼしき二人連れがお笑い関係のタレントの話を楽しそうにしていた。
どちらも、清楚な感じの好印象なお嬢さんなのだが、話し方が典型的な関西人のしゃべりで、それもかなりのハイペース。
私でさえ、ところどころ何を言っているのかわからないスピードだった。(早い話、ずっと聞き耳を立てていた)
その一部。
東京の笑いは、結局笑いではないみたいな話。
その時は面白いが、一般性がない。
長井秀和というタレントがいる。
「マチガイない!」がキャッチフレーズなのだが、あの人はお笑いには向いていない。
バラエティとして、その一部にはまるが、あくまでバラエティのタレント、つまり一つの歯車にすぎない。(鋭い!)
お笑いというのは、バラエティの一部にはまるだけでは駄目だ。
概して、東京のお笑いには、ただの歯車に過ぎない人が多い。
爆笑問題は、まだましかも。
特に、バクチュー問題(例のねずみパターン)は面白く、土曜日の朝はお母さんと一緒に見ている。
でも、やっぱり爆笑問題は東京の笑いかも・・・エトセトラ、エトセトラ。
やっぱり、関西の女の子には、東京の笑いが卑小にしか見えないということなのだろう。
私の意見をいうと、東京の若手の笑いはコントの延長なのだということ。
新劇の笑いとの相似性を感じる。
新劇も、途中にお笑いがしばしば入る。
その間のとりかたと、東京のお笑い連中の間のとり方が同じのような気がする。
だから、劇というか構成というか、その枠組みがないと東京のお笑いは成立しない。
しかし、大阪の笑いは、どこからでも始まり、どこでも終わることができる。
時間が来ましたから、これぐらいでという終わり方は余りにも能がなさすぎるし、時間が余ったから、どうしていいかわからないということも大阪のお笑い人にはない。
そういえば、落語も同じような差異がありそうだ。
裃を着て話す江戸落語、対して場合によっては裸にでもなりそうな上方落語。
どちらがいいかは、この場合何とも言えないことではあるが。
しかし、大阪の女の子の笑いには批評眼はすごいなあと感心した、女の子の片割れが途中で電車を降りたのがちょっと残念だった、もう少し聞きたかったなあ、安部邦雄