劇場型民主主義と言う言葉がある。
政治という舞台で演ずる役者が政治家。
有権者というか、国民はそれを観戦する観客。
だから、政治家はより観客をうならせる演技ができないといけないし、観客は瞬間瞬間に反応しながら、ああだこうだと評論する存在とでもいおうか。
本当は政治とは、観客と役者の関係であってはいけないのだろうが、テレビ文化の影響で近年ますますそういうものになりつつある。
自分では何もしない観客、すなわち国民。
観客が喜びそうな演技、演出に精を出す政治家。
しかも彼等にとって、観客は見事に区別されている。
自分をひいきにしてくれる客には、利益の配分を最優先する。
金のある観客、地位のある観客、いわゆる枡席で見ている客と、平場や立ち見で見ている客は当然区別されているわけだ。
客も又、自分では何もしないのに、文句ばかり言っている。
ああだこうだと、うわさ話と同じレベルで政治を語る。
難しい話は、それらをまとめてくれる人に判断を一任。
その人が言ったことを、さも自分のオピニオンのように思ってしまう体たらく。
テレビから受ける情報を情緒的に受動し、自分の中で体系化することもなく、一番受け入れやすいイメージにして記憶の中にしまいこむ。
すなわち、最軽量=レッテル貼りですべてを処理しかねないのが特徴である。
シンプルにして覚えることは悪いことではない。
しかし、シンプル化する過程が正しいかどうかを全く検証しないのは問題ではないだろうか。
劇場型民主主義には、簡単に為政者にハンドリングされかねない弱点がある。
ナチスの政策を、何の疑いもなく受け入れていったドイツ国民。
ハッと気づいたら、もう後戻りできないところまで来ていた。
そんなことが、これからも日本には起きるのかもしれない。
作ってしまったものはしかたがないと言って、維持費に無駄に金が使われていく愚。
自衛隊なんかは、これから世界の要請が来た場合、どこへでも出ていかなければならなくなる。
北朝鮮へも、台湾へも。
すべてアメリカの意向次第かも。
悲しいかな、私達にはそれを拒否する制度的権利がないのだ。
前にも書いたが、阪神大震災は、関東大震災しか考えもしなかった関西人を本気にさせた。
関東大震災を観客として見させてもらうつもりだった関西人が、全く予期せぬ形で自分達が演技者になってしまった。
それは、観客的視点では語りつくせないことだったろう。
私達は、いつ自分が観客の飢えた目の餌食になるかわからない。
震災にあった悲劇までも、道化に変えてしまう劇場型民主主義。
イラクの人質事件の時も、そこにあったのは安全地帯にいる観客の飢えた目であり、遊興としての虐めであった。
拉致家族しかり、長崎の少女しかり、あまたのワイドショーの餌食しかりだ。
私達はいつまでも、観客でおられる保証はないことに何故気付かない、またマスコミは何故それを警告しない。
金がほしいのか、視聴率がほしいのか、特権的地位が欲しいのか。
私ができることはただ一つ。
こうやって、自分の立場を公表し、自分が安全地帯にいる観客にならないよう努力することだ。
鬼族ではなく、仏族の一員として。
平和に暮らすためには、鬼族とつきあわないこと、口をきかないこと、でも生きていくためにはそれもできない、どうしたらいいのだろう、安部邦雄