環境が不安定になれば、人間の心も不安定になる。
心が平穏なら、判断を間違ったりしないものだが、何かにかきまわされると、とんでもない失態を演じたりする。
最近では、オレオレ詐欺にかかったりするのもそう。
普通なら、そう簡単に赤の他人の演技にだまされることなどない。
ただ、交通事故で大変だということを頭に言ったり、誰かに脅されていて殺される等と言ったら、受ける方は絶対に動転するはず。
受話器の向こうが誰であろうと、孫だと言っている相手が切羽詰まった状態にいることは理解できるだろう。
じゃあ、その相手が本当に孫なのか?
つまり、孫か孫でないかを判断する前に、受ける側が動転してしまえば、そんな判断力は働かないと思った方がいい。
冷静になって、初めてわかるのだ。
おかしいな、と思っていたのだが、相手が切羽詰まっているので、自分もそれに煽られてしまった。
ああ、なんてことを。
自分はそんなことはない、なんて思ってはいないだろうか。
今まで、財布とかカバンなどを失ってドギマギしたことはなかったろうか。
呆然として、しばらくどうしていいかわからない、という状況になったことはなかったろうか。
そんな経験のある人は、多分、オレオレ詐欺にもかかりやすいと思った方がいい。
詐欺にかからない人は、よほどそういう詐欺的状況になれている(つまり場数を踏んでいる)か、財布やカバンがなくなったからと言って、ま、何とかなるさと思える人だ。
夢で、カバンを置き忘れる夢なんてしょっちゅう見る人は、用心したほうがいい。
詐欺は、そういった、こうあったらどうしようという心の陥穽に入り込むものなのである。
人の心には、いくつかの穴があるものだ。
普通の状況では、その穴はあまり感じないものだ。
しかし、極限状況、つまり精神的に動揺するようなことがあった時、穴は見事に開き、やすやすと判断力も理性もその穴の中に落ちてしまうのだ。
おれは、大丈夫だなんて平常時にはいくらでも言える。
突っ張っているやつほど、心理的圧力には弱いものなのだ。
あまり、原理原則を持たない人、何があってもなるようにしかならない、と思える人、そんな人はほとんど詐欺なんかにはかからない。
ただし、物事に対する思い入れもないから、友達としてはイヤな奴ではあるのだが。
村上龍の「69」を読了した。
1969年の自分の高校時代の一部を描いたと村上氏は書いていた。
その中で、主人公は高校をバリ封鎖して、適当なところで逃げ出す。
仲間と彼はその成功に有頂天になり、学校という権力機構に一矢報いたと無邪気に喜ぶ。
しかし、やがて警察がやってきて、主人公も含め全員補導されるのだが、今まで強気なことばかり吐いていた連中が次々に警察の取り調べに耐えられず、仲間を売って行くのだ。
早い話、みんなヘタレなのである。
ちょっと精神的に揺さぶられると、今まで突っ張っていたものが自分を悪い立場に追い詰めるのだと思いはじめる。
しゃべってしまえば、楽になるよ、と唆されると後は一気呵成の自白ショー。
人間なんて、小市民そのものだ。
人間はプライドは大きいが、心は小さい。
プライドの高いやつほど、ちょっとした挫折で鬱病にかかったりする。
そんなやつを一杯見てきた。
弱いやつほどキャンキャン吠える。
「69」を読み終わって、久しぶりにそういう諦観が甦った。
大学時代、権力と対峙していた時、あるいは違うイデオロギーの連中と対立していた時、この諦観は何度も頭の中をループしていたものだ。
結局、修羅場に強くならないと人はだめなのだ。
理屈なんか、いざとなれば役に立たない。
場数が人を成長させるのだ。
そして、人の心がどれだけ頼りないものであるかを、実体として認識できるようになるのである。
戦争に行くのではない、復興に行くのだという小泉首相は、一度も戦場に立ったことはないだろう、指揮官はあなただからリーダーシップはとってもらいたいが、単に突っ張っているだけにしかみえなくなれば要注意だ、最近とても気になる私である、安部邦雄