50年前の2月1日はテレビが始まった日だそうだ。
NHKが一方的にそう言っているような気がしないでもないが、とりあえずテレビの年令が50才であることにしておこう。
で、そこで気がつく。
テレビの年令って、団塊の世代とイコールなんだなと。
テレビは団塊の世代とともに大きくなって来た。
前にも言ったが、戦後の日本の文化は団塊の世代抜きには語れないということだ。
団塊の世代が、おれたちが今の日本を作ったのだと言ったとしてもあながち間違いではない。
テレビの歴史はおれたちの歴史だ、そんな叫びすら聞こえてきそうな気がする。
最後の団塊の世代の私の話を少しだけ書いておく。
私が初めてテレビを見たのは、銭湯ではなかっただろうか。
覚えているのは、宮城まり子が「ガード下の靴磨き」を歌っていた姿。
といっても、私は4才ぐらいだったので、本当はどうだったかわからない。
しばらくすると、テレビは銭湯からなくなっていた。
親の話では、泥棒に盗まれたということだった。
しかし、盗んだ泥棒、それをどう処分したのだろう。
テレビなんか、何百台しかない頃だから、足がつくのは目に見えていたはずなのに。
次の体験、親戚の家で大相撲を見た。
6才頃だったか、相撲が好きだったので(当時の子供はよく相撲ごっこをした、私は三根山を名乗っていた)食い入るように小さなテレビの画面を見ていた。
でも、このあたりは断片的。
街頭テレビも何度か見に行った。
公園の高いところに鉄の箱が置かれ、中にテレビが入っていた。
普段は鍵がかかっていたが、プロレスとか野球中継がある時は、その扉が開いて、テレビが映し出された。
その頃の公園は本当に人の集まる場所だったということだろう。
近くのうどん屋さんにテレビが置かれた。
子供の私は見たくって仕方がない。
親にうどんを食べたいからお金をくれと何度もねだったが、母はテレビが見たいからそう言うのだと見抜いていた。
何度か、この子にテレビを見させてやってくれと母が頼んでくれた。
でも、頼んでまでテレビを見たくないという気持ちも私にあった。
家業は、質屋であった。
小学校に上がってから、質草としてテレビを預かったりし始めた。
で、その日から、質屋蔵に入っては、テレビを見るようになっていた。
当時は、たいてい室内アンテナを使っていた。
ディズニーランドがとても楽しみだった。
ウォルト・ディズニーのやさしい顔は今も記憶の中に鮮やかに残っている。
質草としてのテレビが流れ、ついに我が家のものとして使うことになった。
皇太子御成婚(昭和33年)の少し前の頃である。
ローハイドとかプロレス中継が流れ、家の茶の間は色んな大人で一杯になっていた。
プロレスは八百長だ、と私は強く思った頃だ。
長嶋のデビュー、西鉄が3連敗の後、巨人を4タテして優勝した日本シリーズ。
今も鮮明に覚えている。
「番頭はんと丁稚どん」の舞台、亜細亜製薬のベルベのコマーシャル。
前にも書いたと思うが、スキー場で紅茶同士が競争し、優勝する日の丸セイロン紅茶のコマーシャル。
まだ、日本人がほとんどテレビに接することが稀だった頃に見た番組は、その情報を交換する相手がいないのが残念だ。
「ベビーギャング」が何故10時すぎに放送されていたのだろうか。
江木俊夫(後のフォーリーブス)が子供で出ていた「20世紀」という科学番組。
その前の番組が「みゆき野球教室」。
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♪ミユキ、ミユキ、服地はミユキ
紳士だったら知っている
服地はミユキと知っている
ミユキ(ミユキテックス)、
ミユキ(ファンシーテックス)
ミユキ、ミユキ、服地はミユキ
この歌を覚えている人はどれだけいるのだろうか。
先日、放送していたNHKの特番は、残念ながらテレビの一部でしかない。
テレビには、もっと色々な要素が当時はあった。
NHKの視点からだけテレビを語っても、それは実に中途半端なものでしかなかった。
テレビには団塊の世代の人生が同時進行で存在していた。
昔を懐かしむだけで、テレビの歴史は語ってほしくないと、私は強く思った次第である。
中学校に通う時、いつもNHKの朝の連続小説のテーマ曲とともに家を出たものだ、一番印象的なのは「おはなはん」、学校は8時半からだったので、それぐらいに家を出るとちょうど始業に間に合うのだ、安部邦雄