今日は12月8日。
とくれば、真珠湾攻撃の日、すなわち日米開戦の日だ。
今から61年前、1941年のこと。
生まれてもいない私がどうこういえる話ではないが、調子にのったガキ大将が思いきり制裁を受けるきっかけになる日でもある。
ガキ大将は、どこまで行ってもガキである。
身の程知らずゆえの悲劇、それが太平洋戦争であったと言えるのかもしれない。
私にとって思い出深いのは、この日がジョン・レノンの命日でもあるということ。
ニューヨークで撃ち殺されたと言う話を聞いてまず思ったこと。
へえ?、ジョンってイギリスじゃなくて、ニューヨークに住んでいたのか。
その頃の私はちょうど30歳。
ビートルズ解散後、正直言ってあまり彼に関心を持たなくなっていた。
ジョンのソロアルバムも一枚も持っていなかったし、彼のコンサートがあっても行きたいとも思っていなかった。
私事をもう少し書くと、この年の10月、私は4年あまりの制作部勤務から営業部に人事異動されたのだ。
その当時の私は、営業部なんか死んでも行きたくないと思っていた。
そんな命令を受けたら、会社なんかやめてやると決めていた。
このあたりの話は、長くなるのでとてもこの欄では書けないが、心底そう思っていたのだ。
ところが、当時ある事情があって、私は制作部にいるのが精神的に重荷になりはじめていた。
会社勤務自体をやめ、もう一度大学に戻って研究活動してみたいと思うようになっていたのだ。
今から考えると、それは単なる逃避行動にすぎなかった。
自分ではどうすることもできないと弱気になっていた私が、かっこいい去り方を勝手に夢想していただけだった。
そんな頃に、営業部への人事異動。
会社の方から逃げる場所を提供してくれたともいえる。
会社をやめるのは簡単だが、せっかく営業部という逃げ場を作ってくれたのだ。
毛嫌いばかりしていないで、やるだけやってみよう。
食わず嫌いかもしれないじゃないか。
確かに放送局に勤務している人間が一番やりたがらないのが営業部だ。
何故なら、放送局に入りたいと思う人間は放送に関する仕事で自分の能力を試したいのである。
営業の腕を上げたいとか、人にものを売る能力を試したいのなら、商社とかメーカーに入っているだろう。
営業なんかに基本的に興味がない連中が集まるのが放送局なのであるl。
やりたがらないのは、当たり前だろう。
ところが、実際やってみると、社内で一番発言力があるのが営業であることがわかる。
一番潰しがきくのも、営業マンなのである。
よく聞く話だが、マスコミのトップというのは、たいてい営業関連を経験したことがあり、ジャーナリスト一筋なんて人は珍しい。
むしろ、ジャーナリスト精神にこりかたまったマスコミ人では、経営者になることは難しい。
今でも思うのだが、私が営業経験があることは、それがわずか4年ほどだったとしても今の自分の価値を相当高めてくれたのは事実だ。
営業経験がない連中は、ものの売り方を基本的に知らない。
自分でものを売ったことがない連中は、勝手に自分で作った営業イメージに呪縛され、自分を自己卑下してしまうキライがあるのだ。
おっと、又、12月8日の話がだいぶ横にそれてしまった。
で、営業部に配属されて、まだまだ戸惑いの中にいた私にジョンの死が伝わったのだ。
そうか、ジョンが死んだのか・・・
自分の中でも、何かが一緒に死んだような不思議な気持ちが込み上げてきた。
自分の部屋に戻り、レコード棚をぐるっと見渡したが、ビートルズのものはあっても、ジョンのソロは一枚もない。
コートを着て、外に出た。
近くのレコード店(千林にあったミドー楽器、数年前倒産)へ行って、ジョンのアルバムを物色した。
そして買ったのが「シェイブド・フィッシュ」、つまり鰹節。
ジョンのベスト盤である。
一曲目は「マザー」だった。
イントロの寺の梵鐘が鎮魂の鐘となって、私の部屋と心に鳴り響いた。
「シェイブド・フィッシュ」とともに、私はひとりお通夜をした。
次の日は、普通に起き、ネクタイを締めて何ごともなかったかのように出社し、営業の仕事をこなした。
ジョンはその日以来、二度と私の心を惑わすこともなく、ひとりの偉大なアーチストとして私の記憶の中に今もいる。
今でも、ビートルズは青春のかっこいい偶像であることは間違いない、ビートルズをも過去のものとして葬り去ることができるのは、やはりポールが亡くなったときなのだろうか、安部邦雄