「飯米(はんまい)に追われる」ということわざがある。
飯米とは食べる為の米のこと。
それに追われるということは、飯米を得る為に必死になっていることを指す。
つまり、生活が苦しいという意味だ。
飯米に追われるような生活、という風に使うらしい。
らしい、と言ったのは、最近ほとんどこんな言い方をする人を見かけないからだ。
上方独特のことわざなのだろうか、広辞苑にもこんな表現はない。
ネットで調べると、上方落語の「いもりの黒焼き」にその表現がある。
上方というか、関西には2000年以上の言語の歴史がある。
それは関東の比ではない。
それゆえ、関西にはたくさんの独自の言い回しとか、ことわざがあったはずだが、今日ではほとんどのものが消失しているという。
それは、膨大な古墳が宅地造成などの為に次々に破壊されて行くのと良く似ている。
今さら、関西のことわざなんか役に立たない。
今ある、国家認定のことわざで充分だとでもいうように。
これも桂米朝さんの受け売りだが、昔はいろはガルタには、上方版と江戸版があったらしい。
例えば、「縁の下の力持ち」ということわざがある。
目立たないところで、人のために役立っているという意味だ。
上方では、これを「縁の下の舞」と言うそうだ。
意味は同じだが、こちらの方が実に粋だなあと思う。
そんなところで舞を踊っても誰も見れないのだが、そんなところでも舞を踊ることの粋さかげんはどうだろう。
あほちゃうか、と言われればおしまいだが。
それに比べ江戸の力持ちというのは、あまりにも即物すぎる。
やはり上方がお公家さんの文化なら、江戸が職人の文化というわけなのだろう。
さて、「飯米に追われる」の話に戻る。
バブルがはじけてからこの方、「飯米に追われる」生活を送っている人はそこそこおられるだろう。
昔は、それ以上に一杯そんな方が私の周りにいた。
米びつに米がない。
その米を買う金もない。
子供がひもじいと悲しそうな声を出す。
亭主は、悲しいかな失業の身。
仕事をさがしに、外へ出ても、おいそれと飯のタネは見つからない。
嫁ハンはボロい自分の着物を持って、なじみの質屋へ。
質屋の親父は、そんなボロい着物には一円の価値もないことは知っているが、嫁ハンの心に免じて、何がしかの金を貸す。
米屋に行き、一升ほどの米を買い、亭主用に安焼酎を二合ほど買ってくる。
ご飯ごしらえをしながら嫁ハンは思う。
こんな生活、いつまでつづくんやろか?
背中には赤ん坊を背たらえ、嫁ハンの苦しい生活は今日も続くのであった。
そうです、こういうのを「飯米に追われる生活」と言うのです。
家には火の車が回っているという言い方もあります。
「火の車」とは地獄にある火がついている車のこと。
これに罪人をのせて、地獄に送るらしい。
つまり、最初からそんな熱い苦しみに苛まれながら罪人は地獄に送られるわけですね。
そんな車が家の中でまわるわけです。
そりゃ、熱いし、苦しいに決まっています。
さて、最近の私ですが、この10年ぐらいずっと「飯米に追われる」暮らしをしているような気がします。
ま、米は買えるし、ちょっとした遊びに使う金もないことはないのですが、肝心の借金が少しも減りません。
つまり、どこかで私が休んだら、文字通り地獄にまっ逆さま。
そりゃ、楽ではありません。
でも、「飯米に追われる」って言葉、私の好きな言葉のひとつなんですね。
人間なんて、一生を飯米に追われて生きるべきではないか、そんな気がして仕方がない。
狩猟によって生活を支えていた頃、人間はみんな毎日飯米に追われて生きていたはずです。
それゆえに、人間は色んな可能性を身体の中に持っているのではないでしょうか。
満ち足りた人間はみんな怠惰になり、飽食してしまうのではないか。
やはり、人間が人間であるためには、どこかで飯米に追われている必要があるのではないか。
毎日、資金繰りに追われている私としては、負け惜しみかもしれないけど、きっとそうなんだろうと信じていたい心境です。
ところで、明日の更新はひょっとしたら間に合わないかもしれない、一日パソコンとは縁のない場所にいるので、一応ご承知のほどを、安部邦雄