浅田次郎氏の「鉄道員(ぽっぽや)」を100円で買った話を先日したと思うが、今回はその作品について少し語ってみたい。
浅田氏が直木賞を受けた対象作品が「鉄道員(ぽっぽや)」というわけだが、作品自体は、きわめて簡潔に書かれた短編である。
とても、後に高倉健が主演した2時間弱の映画になりそうもない小品である。
確かに、この作品からあの長ったらしい映画を作ることは可能だったろうと思われる。
それほど、小説は多くのメッセージをその部分部分にちりばめている。
そのメッセージ1つ1つに尾ひれはひれを付ければ、あの映画になる。
それは、私にもよくわかる。
しかし、とここで私は感情移入の問題を持ち出したい。
私は、小説ほど感情移入はできなかった。
映画はあまりにも説明的であり、あまりにも役者が鬱陶し過ぎたのだ。
廃線が間近の北海道の駅長、丑松が高倉健。
子供の頃、死んだ娘に広末涼子。
その妻に、大竹しのぶ。
同僚の駅長に小林稔持。
炭鉱夫に志村けん。
豪華メンバーである。
これらが、映画の画面でそれぞれ存在を主張し、お涙頂戴のストーリーがつづられる。
ほとんど小説には出て来ない話ばかり。
そんなエピソード、類型的すぎないかと不満が次々と出てくる。
何が感情移入を阻害すると言って、小説に出てくる人々はこんなに存在がはっきりした人たちではなかったことだ。
もっと、アバウトなキャストでよかったのだ。
高倉健は、まあ仕方がないとしよう。(でも、この人は不器用な演技はできても、鉄路に執着して生きるしかなかった主人公の心の弱さは表現出来ない。何しろ、この人は強すぎるのだ、)
後、大事なのは、娘が幽霊となって出てくる場面。
幽霊といっても、極めて存在感のある幽霊で、それも小学生、中学生、高校生の3パターンが必要である。
何故、高校生役の広末ばかりを、こんなに強調するのか。
大竹しのぶはとても評価する役者のひとりだ。
だけど、小説ではこの人は、彼女が見せたほど表情を持つ人とは描いていない。
物静かで、めったに感情を見せないと書いてある。
大竹しのぶは、ずっと画面で感情を見せていた。
確かに、奥ゆかしい妻の演技はさすがだったが、顔に出る感情は違うと思ったわけだ。
小林稔持は、まあ良かったかな。
つまり、私は先にこの作品を読んでいるだけに、映画には素直に感情移入できなかったというわけだ。
今頃、2年以上前の映画を批評してどうするつもり?と言われそうだが、前にも書いたが、この作品をプロデュースした人は、商品には感情移入が必要だということをあまりわかってはいないのでは、と思ったからだ。
この作品は、ストーリーがよくできている。
それゆえ、映画がストーリーに救われているのだ。
それをいいことに、こんな客受けする役者をそろえて、いい加減なレベルで映画にしてしまったことが残念なのだ。
実は、単行本の「鉄道員(ぽっぽや)」には8つの短編がのっていて、どれも映画やドラマにしたくなる作品ばかりなのだ。
ラジオドラマでもいいから、プロデュースできるものなら私がしたいと思ったものばかり。
鉄道員(ぽっぽや)は表題作だけに、どこか大手が絶対にやるから無理としても、どれかやらさせてもらえないかな、と思っていた。
それゆえ、映画には期待するもの大だったのだが、結果は日本アカデミー賞独占といえど、正直こういう映画の撮り方は作品を矮小化するなと感じた次第なのだ。
役者の名前で見せるのではなく、作品の高貴さで見せてほしかった。
仕方がないのかもしれない。
今の日本の映画(ドラマも舞台も一緒だが)は、キャスティングで興味を瞬時にわかせ、中味もわからずに前売り券を売り付けるシステムが主流なのだ。
誰かが最初に見て、それを口コミで伝えて行くという、本来作品が一番いい形で広がって行くパターンは、ビジネスモデルとしては確立されていない。
理由は色々あるが、どこの劇場もそんなに余裕がないということだろう。
最近の作品で「メメント」という映画があったが、これなど役者なんか全然知らない人ばかり。
それが、小さなスペースで上映されると、あっという間に口コミで広がり、連日超満員だった。
本当は、「鉄道員(ぽっぽや)」も、こういう形で上映されるべきはなかったか、と私は思ったりする。
そうすれば、私はもっとこの映画に感情移入できたろう。
劇場システムの違いということだろう。
舞台の世界でも色々ある。
長くなるので、今日はその話はしないことにするが。
等と書いて来たが、どうも今日はうまく自分を表現出来ない。
これを読んでいる方も、ちょっと感情移入ができないなあと思われているかもしれない。
とすると、商品としては、今日の書き込みは失敗作というわけだろう。
ま、たまにはいびつな私の作品もお読みいただければ幸い。
たまにはというよりも、ひょっとしたら毎日かもしれない、安部邦雄