私が今解決しないといけないと思っている課題に著作権がある。
前にも書いたが、つい10年ぐらい前はほとんど著作権とか著作隣接権とかに関心はなかった。
ま、著作者というか、それを作った人の権利は100%守ってあげるべきだと純粋に思っていただけだった。
8年前、私はFM大阪と一緒に音楽出版社を立ち上げた。
そこで、初めて音楽出版権が著作隣接権と呼ばれていることを知った。
隣接権か?ふ?ん。
そういえば、フロムスリーは舞台を上演する度に、この著作権関連をいつも処理していたなあ、と思い出した。
いわゆる、上演権の獲得である。
これも考えれば著作隣接権なわけだ。
で、近頃、この著作権問題が私の周りで色々と論議されるようになった。
特に音楽関係の商品がどんどんデジタル化されるに従い、それを無許可の複製から守ろうとする動きが強まっているように思うのだ。
勝手に複製しないでくれ!
そんな声が商品の販売によって経営を成り立たせている業界から噴出している。
著作権を守る立場からすれば、至極当たり前の主張のように思える。
ところが、近頃何となくそうではないのではないか、という声が出始めている。
著作権を守るのは正しい。
しかし、その著作権で商売している業界を無条件に擁護するのはおかしくないか?という主張である。
著作権を独占的に取得し、その権利で最大限の利益を得ようとする行為を、著作権の名の下に無条件に守ることが正しいのかどうか。
著作権は英語でcopyrightと言う。(そのまま訳すと複製権になるが)
で、この排他的なcopyrightに対抗する形で、copyleftと言いう考え方が出て来た。
コピーを置いておくということではない。
rightの反対がleftだから、こう言いはじめたようだ。
排他的な著作権を改め、善意の第三者が自由に作品を利用できるような著作権にしようというのが、copyleftである。
音楽の例で見てみよう。
今、あるアーチストが音楽を作ったとすると、それを金に変えるメディアは文句なくCDという商品である。
その商品には、アーチストの著作権以外に、いくつかの著作隣接権というのが設定される。
原盤権、出版権、複製権、送信可能化権、エトセトラ。
だが、こういった権利はほとんどの場合、著作者が持っているのではなく、それを商品化したものが持っているのが実情だ。
すると、これらの商品化したもの達のモーチベーションは例外なく次のようなものになる。
商品に排他的な権利を設定し、独占的に利益を得よう。
この志向は、著作権者の権利を保護しようということとイコールだろうか?
善意の第三者が、著作物を使って新しい価値を産み出していくことを邪魔しているのではないか?
かって、先人たちが作り上げた価値の上に、今私達は生きており、またその成果の上に新しい価値を産み出しているのが私達の状況ではないか。
何故に、一部の商品化権を握ったグループが排他的にその価値を独占できるのだろう。
金がほしいだけかい!?
著作権を金もうけの道具にしたいだけかい!?
文化的遺産もすべて金に置き換えるつもりなのか、私達は。
しかたがないのかもしれない。
テレビの「なんでも鑑定団」って、過去の歴史的作品群を、すべて金の価値に置き換えて評価して人気を博しているのだから。
金に置き換えない限り、その価値を評価出来ないのだ、現代人は。
そうすると、音楽もそうなのかもしれない。
よい作品と言うのは、一番金を稼いだものだ。
みんなが高い金を出しても、手に入れたいと思うもの、それが価値ある作品なのだ。
そうか、金を中心に今の時代はあるのか。
著作権を金もうけに使って何が悪い?
う?ん、やはり、どうもモヤモヤしたまま、今しばらく時が経つのを待つしかないのだろうか。
前に、「幸せをお金で奪いあう世の中」という話をしたけど、結局、お金しか自分達が生きるためのものさしにならないようですね、あんたの給料はいくら?なんて聞くのもその価値観で自分を評価するしか方法がないということかも、安部邦雄