糸井重里さんが、「インターネット的」で上げておられた三原則が「リンク、シェア、フラット」だ。
リンクというのは、確かに面白い概念だ。
自分が答えを持っていなくとも、誰かがその答えを持っていれば、リンクを張っておけば容易にその答えに行き着ける。
自分で問題を解く必要はない。
自分で、論理を構築する必要はない。
ただ、リンクさえすれば、自分が考えなくとも答えは出る。
それが、リンクである。
そういえば、サイトの中に、リンクだけで構成されたものも少なくない。
自分は何のコンテンツも持たないが、リンク先を整理しておけば、それだけで人はやってくる。
アルバイトニュース等と同じようなものである。
こういうことは、必然的にリクルート社なんかは上手なような気がする。
お行儀よく情報を整理するのは日本人の得意な分野だ。
辞書や事典の類いがこんなに発行されているのは、日本が一番だと思うのだが、いかがだろうか。
難点は、リンクばかりしていると、本質を見失いがちなこと。
それだけで、情報を発信していると錯覚してしまう。
基本は、自分である。
自分が情報を発信する主体にならなければ、インターネットは十分に活用できているとはいえまい。
シェアというのは、結局この、自分が情報を発信する主体であるという自覚と密接な関係があると思う。
自分のものを分けると同時に、他の人のものを分けてもらう。
コンテンツの物々交換というわけだ。
人間の存在は、単なる受益者という形では終らないのは自明だ。
常に、自分も社会にコミットすることを義務付けられている。
ネットの社会では、一方的な受益者になれるのではないかと思っている人がいるが、それは大きな誤解である。
自分が日々生きていることが、何らかの社会へのコミットメントであるわけだから、ネット社会においても何らかのコミットメントが必要である。
単なる受益者という考え方は、相変わらずの1対Nの関係でインターネットを捉えているからではないか。
ネットはテレビのような一方的な情報の享受ではない。
今は、まだ過渡期なのかもしれない。
テレビとパソコンが似て非なるものといわれる所以だろう。
フラットという概念も、情報が上下関係で流れるわけではないということを言い表わしている。
情報は何らかの押し出す力がなければ、外へは出て行かない。
上から下への情報の流れとは、根本的に違う世界がここにはある。
では、その押し出す力とは、何なのか?
私が流通の3原則で持ち出す「コンテンツ、コンテクスト、デリバリー」の中の、コンテクストと関係がありそうだ。
フラットな状況では、何もなしでは情報は誰にも伝わらない。
それを伝えるための押し出す力、それがコンテクストということではないだろうか。
インターネットは、そのままではどこにも繋がらない閉じた情報系である。
押し出す力=コンテクストとするなら、その具体的な形がそろそろ明らかになっていくべきなのかもしれない。
具体的な形とは?
今のところ、これ以上は語れる状況ではない。
皆さんのご教示などいただけると、嬉しいのだが。
コンテクストとは押し出す力だといきなり断定してしまったが、それでいいのかどうか、ちょっと思いつき的すぎるというか、抽象的すぎるというか、ま、今日はそれでもいいさ、と思っている、安部邦雄