さて、又教育論に戻る。
前に教育のデフレスパイラルと言う表現を使った。
もちろん、こんな言葉はない。私の造語だ。
しかし、教育が衰退して行くスパイラルに入っていることは間違いないようだ。
誰も、このスパイラルを止める処方せんを持っていない。
では、どうすればデフレスパイラルを止めることができるのか。
一つのヒントは、前にも書いたが「経済を語る人ほど、教育を語る人がいない」という現実である。
何故か?経済を語ると金になるからだ。
教育を語るだけでは飯は食えない。
教育評論家という人をどれだけ貴方は名前を上げられるだろうか?
経済評論家となると、おそらく幾らでも名前を上げられるだろう。
テレビや雑誌、新聞等、彼等はマスコミの寵児でもある。
しかも、その経済評論家たるや、言っていることはてんでバラバラだったりする。
ここは構造改革だ、いや、今は景気回復だ、大体こんな時代に倹約なんてしてはならない、etc.
誰かは当たるだろうし、誰かははずれるだろうが、この人たち、ずっとこんな論争を話題を変えつつ続けている。
しかも、この方々、結構な収入があるのだから実にうらやましい。
バブルを演出した人も一杯いたはずなのが、そういう人はこれと言った責任もとらずに、相変わらず経済予測がどうの、政府の財政政策がどうのなどと言っていたりしている。
そりゃ、こんな経済評論家に高い顧問料とか払っていたら、銀行の経営者が責任をとるはずないよな。
私は、確かにこの方々、そこそこ合理的に経済を語っているのだが、本質的にはそこらへんの占い師と変わらんと思っている。
来年の日経平均は、下値が8000円で上値が13000円ぐらい、その間で推移するだろう、等と言っていたりしている。
もしそれ以上の値がついたら、彼等はこういうだろう。
「○○という不確定要素が入った為に、比較的早く景気の回復がはかられたと見るべき。」
不確定要素が厳に存在しているのなら、何故それを排除して予測なんかできるの?
何の根拠があって、反対論者と確信的な議論ができるの?
不確定要素によって、自分の意見と正反対の結果が出てきたら、あの時の論争は私の負けだったというのならまだ許す。
おそらく言わないだろう。
みんな上客のついた占い師なのだ。自分を否定したら、おまんまの食い上げになる。
さて、教育の話だ。
教育を語る人が何故こんなに少ないか。
それは、教育を語るだけでは飯が食えないからだ。
教育者は教えないと飯が食えない。
少なくとも、他に食い扶持がない限り、教育を論じる余裕はないはずだ。
今の時代で、一番優秀な教育者は誰だと思う?
これは文句なく、予備校の人気講師である。
彼等は、結果勝負の客商売である。
生徒の支持がなければ、その地位を保つことはできない。
それゆえ、予備校の講師は生徒(客)のニーズを詳しく知っている。
誤解を恐れずに言うと、彼等は教育の世界のマーケッターである。
それゆえ、優秀な講師の収入は何千万である。
本当の教育を語れる者には、やはりそれなりのインセンティブがあるのである。
学校の教師がダメなのは、彼等が客商売として自分の仕事を認識していないからである。
聖職なんて誰が言い出したのかは知らないが、それは教育哲学の問題である。
哲学(道徳)を押し付けるのが教師の仕事ではない。
生徒(客)のニーズに合わせて、彼等の知識や教養を重層的に積み上げて行くのが仕事なのである。
そして、その結果生徒達があらかじめ想定されていた到達点にアチーブすれば、教師には何らかのインセンティブが与えられるべきだ。
そうでなければ、教師が自分達のスキルをあげる事に努力するなんて考えられないのではないだろうか。
聖職者だから、そういう資本主義的な価値基準に左右されるのはおかしい、なんて言う人もいるだろう。
でも私は違うと思う。
本当に聖職者だったら、荒れる教室に対して無力なわけはない。
ただの人間だから、手をこまねいて呆然としているのだ。
教育を語る人々を文部科学省は育てないといけない。
そのためのインセンティブを用意しないといけない。
先生は労働者か聖職かなんて論議は今の状況下ではあまりに空しい論議だ。
手をつけるのは、まずそれからではなかろうか。
インセンティブがあるのなら、もっと私も教育を語るのだが、安部邦雄