世の中は、改革、改革の合唱の日々。
改革は大賛成、しかし、こことここは意味があるので、基本的には変えない、などという意見もそろそろ出て来たようだ。
つまり、今私達がやっているのは重要で意味もあるから、改革する必要はない。
他の人のやっていることは、どんどん改革しよう!などと言うのが本音のようだ。
改革の断行は、従来の人間関係をぶちこわす!
これは、あまり語られることがないが、私の実感である。
今までの人間関係を維持しながら改革なんて絶対にできない。
日本人が一番苦手な部分だ。どうしても人と人の付き合い方は変えないで、何とか外側だけを変えようとする。
そのうち、時間が立てば、新しい枠に従って人間関係も変わっていくだろう。だから、今無理矢理に人間関係をぐしゃぐしゃにするような改革はやってはいけない。
それゆえ、いつも小手先の改革だけで終わる。
端的な象徴が、霞ヶ関の改革のやりかたである。
あれは、外側を変えただけ。業務などは、従来の人間関係をそのまま引っぱて来ても何ら問題が出ないように、色々知恵をしぼっているというのが実感だ。
霞ヶ関は変わろうとしていないわけではない。ただ、今までの人間関係をゼロにはできないから、そのまま置いておこうとしているだけなのだ。
時間が立てば、人は変わる。
歳々年々人同じゅうせず、というわけだ。(※)
日本人の世界観には、この自然に生成流転することへの無条件の従属というか、達観がある。
無理矢理状況を人為的に変えることは、いつか自然(社会)から強いしっぺ返しを食らうのではという不安感がある。
ほとんどの人にとっては、改革はお題目なのである。
基本は今のままでいいのだ。ただ、ほっといても水は高きから低きへ流れ、春になれば桜が咲き、秋になれば枯葉が散るのである。
むりやり、人のことわりを変えるのが本当に正しいのか?
心のどこかで、日本人の魂はそう言い続けているのではないだろうか?
私の居た放送局も、今や改革待ったなしの状況になりつつある。
しかし、かっての同僚たちの本音は「できれば今のままでいい、無理に新しい状況を作る必要はない。改革は必要だが、今まで通りで私は少しも困らない。」のようである。
放送局は、今までのような独占的立場はもう保てないのはわかっている。にもかかわらず、従来の価値判断に一縷の望みを託す。
それが、本当に誤りであったことが実感できるまで、誰もそれを公的には否定しようとはしないのだ。
日本人は、集団自決の好きな国民性だと言った人がいる。今のままで、今の体制で、我々がこれ以上存続できないのなら、いっそ皆で死のう、公に殉じ、最後の花を咲かせるのだ!
これは赤穂浪士と気脈を通じる心性でもある。
はたして、今の日本に構造改革ができるのか?
小泉首相のリーダーシップで、今までの人間関係をグチャグチャにすることができるのだろうか。
しばらく、目が離せない局面である。
私は、ある意味この実験にわくわくしている。どうせ改革などできはしない、などと達観するつもりはない。
またできなくとも、それはそれで日本人らしいなあと思うだけである。
とにかく、賽は投げられたのだ。
後は丁が出るか半が出るか、しばらくは見てのお楽しみである。
丁に100両!原資は貸してね、安部邦雄 (※「年々歳々花相似、歳々年々人不同。」)