「番組の中で不適切な表現がございました。おわびいたします。」
先日のテレビ朝日「サンデープロジェクト」の最後でとってつけたように言ったコメントがこれ。
え、不適切な表現?どこで?何言ったの?
不適切な表現だったため、まさかそれをくり返して言うわけにはいかない。
わかる人がわかればいい、とにかく番組としては謝りましたからね、というメッセージだ。
この場合は、石原知事の言った「私はめくら判を押すわけにはいかない」の部分。
ふだん何気なく使っていると、つい出てしまう言葉のひとつだ。
石原知事は、「三国人」とか「支那」とかやや差別的な言葉を確信的に使うが、今回の発言は単なるミスであろう。
「めくら」なんて言葉は今やほとんどの人が使わない。「つんぼ」も「おし」も「いざり」も、めったなことでは耳にしない言葉になってきた。
差別的な意味しか持ち合わせない言葉が葬りさられることは仕方がないが、では「めくら判」はどうなのだろう?
そう言えば、別番組で農水族議員の松岡某氏(諫早の水門は自民党が開けさせないと見栄を切って、今になってバカにされているオッサン)も同じように「めくら判」を使って、場をしらけさせていた。
どうやら、政治家がよく使いたがる言葉のようだ。
「めくらじま」という布地もある。これは言い換えようがないのでそのまま使うしかない。
「めくら滅法」というのは今でも何かの拍子に使いそう。
私なんか、鉄砲持たせりゃめくら滅法打つしか方法がないのだから。
「めくら蛇におじず」とか「群盲象をなでる」などもある。
いい得て妙なのだが、やはり使わない方がいいのだろう。
放送局の先輩から聞いた話。
ジャニス・イアンの「ラブ・イズ・ブラインド」という曲がある。邦題を「恋は盲目」と言っていた。
ところが、言葉狩りが始まりだし、放送局では言い換え集等をまとめはじめた。
で、某局はこの盲目はダメだといい始め、仕方なしに「ラブ・イズ・ブラインド」の原題で通すことになったという。
盲目がダメで、ブラインドが何故良いのか?
意味は同じではないか。英語ならよいのか。
「キチガイ」はだめで「クレイジー」はいい。考えたら、こんなクレイジーなことはない。
(クレイジーがダメになったら、クレイジー・キャッツが紹介できなくなるのでOKらしい。)
少し前のTBS「花まるマーケット」のゲスト、近鉄の中村ノリダーが「いやあ、これについてはキチガイですわ」なんて大きな声で答えていた。
生だから、どうしようもない。
ま、確かに趣味においてはキチガイなんでしょう、彼は。
(しかし、元放送マンとしては、場の雰囲気がわかるだけに、こちらも冷やっとしますね。)
キチガイを何故放送で言ってはいけないのか。先輩は私にこう言った。キチガイという言葉を聞いたキチガイが気を悪くするから。
ホントかね?
キチガイがキチガイという言葉にナーバスになりそうなのは感覚的にわかるような気がするが、だからと言ってキチガイが更にキチガイになるのだろうか。
昔、ニュースを読んでいる時、ニュース原稿に「虎キチが大いに盛り上がっていました」とあった。
虎キチ?キチガイってそのまま言って良いのか?
煩悶したあげく、「虎ファンが大いに盛り上がって」と読み替えた。
苦情の電話がかかってきて混乱にまきこまれるのはゴメンだと思ったからだ。
こんな苦情の対応していたら、予定していた仕事ができなくなる、君子危うきに近寄らずである。
つまり、言葉を言い換えるのは、君子危うきに近寄らずっであって、この際言論の自由も、報道の自由も関係ない。
事勿れ主義だ、言葉狩りだと、言論人がおっしゃる。
私も同意する。筒井康隆さんとてんかん協会の対立も私は断固筒井氏を支持する。
だが、放送局の一員としては、そんなことより苦情の来そうなことは絶対にしたくない。
自分の思想に殉じるのは勝手だが、放送局はそんな社員を絶対に守ってくれない。
そりゃ、最後に言いたくなるだろう。「番組の途中で不適切な表現がありました。おわびいたします。」
言っておくけど、私は悪くありませんからね。一応、番組として、社として謝りましたからね、私に文句は言わないで下さいね。私は、知りませんからね・・・・。
ついでに、このようにこの欄では書きましたが、これぐらいの言論は許して下さいね。苦情メールは受けたくありませんので。
放送局にジャーナリズムを求めないで、安部邦雄