「人間50年?下天のうちをくらぶれば?」
まもなく、いつものように織田信長は本能寺の火につつまれながら、一さし舞うことだろう。
彼は50才になる前に死んでいる。
既に私はその年を越えてしまった。
地方の領主から、天下人になるまで怒濤のように人生を生きた信長。
私ごときには遠く及ばぬ逸材。
毎日、同じ時間に起きて、テレビを見て、会社に出かけ、同じ時間に会社を出て、一杯飲んで、そして家に帰って寝る。
それが幸せなのかもしれないが、信長という存在を前にした時、私達の存在はあまりにも軽くなりはしないか。
重いものを軽くすることはとても重要だと私は何度も言っている。
しかし、人生は別かもしれない。
年を経るごとに、少しずつ重みが増していく。
それが、年をとることの理想だといわれてもいる。
どんどん軽くなるのは、何故なのだろう。
深みも増さなければ、渋みも出て来ない。
ただ、浅はかで頑固な老人になっていくだけとしたら。
存在の耐えられない軽さ、という奴か。(どんな映画か、忘れてしまったけど)
人生を重く生きるのは辛く、軽く生きるのは楽だ。
ほとんどの仲間が今ほとんど、辛い人生から離れるように、楽な世界へ逃込もうとしている。
後は、趣味三昧に生きるのだそうだ。
軽く生きるのは、確かに楽そうに見える。
私は、50を過ぎて、結果的に重い道を選んでしまったようだ。
楽ではない。
深淵の上に張られた綱の上を、バランスだけを信じて渡り続けている。
向こう岸は見えない。
でも、今さら後戻りもできないのだ。
私が他の連中よりも、少しでも前向きに見えるとしたら、それは結局、後ろに戻りたくとも戻れない状況にいるからだろう。
私には、もはや前しかないのだ。
この道を歩くしか私に選択肢はないと思うからだ。
今月、大学の同窓会が29年ぶりにある、お互いの歩いて来た道を確認しあう場を求めているのだろうか、ま、そういうことを望む年になったということだろう、安部邦雄