会社が代々木にある関係か、代々木公園で集会を行った後のデモ行進によく遭遇する。
車が渋滞しているなあと思うと、次に警察官があちこちに立っているのが見えて来て、そして赤旗や青旗に自分の所属している組織名が書かれ、ぞろぞろと人が歩いて行く。
時々、シュプレヒコールとかをやるようだが、何を言っているのか、さっぱりわからない。
こぶしを振り上げている人もいるが、いやいや参加しているという感じの人も同じぐらい見かける。
デモ行進というのは、もちろんデモンストレーション(示威行動)のためにやるのだろうが、何の示威かわからない以上、私には単なる交通渋滞を起こす厄介物にしか見えない。
見つめる人は誰も賛意を示していないし、行進と言っても、威風堂々なものは何もない。
一体、こんなものに何か意味があるのだろうか。
ただ交通を邪魔しているだけとしたら、警察権力によって民衆とデモ参加者を敵対させる策動にのっているだけのような気もするのだが。
ま、それは穿ちすぎた感想かもしれない。
そういえば、連合系のメーデーというのは、デモを中止したというのを聞いたことがある。
しかも、5月1日じゃなくて、連休の最初の頃に済ましてしまって、後は御自由にお休みください、という日程になっているとか。
反連合系からは、メーデーの意義を冒涜するものと批判されているという。
ま、どちらの言い分にも一理あり、だとは思うが。
昔は私もよくデモには参加した。
相当、心構えのいるタイトなデモもあれば、普段歩く機会のない車道の上をぞろぞろノー天気に歩くデモもあった。
車に乗っている人には、どちらも迷惑な存在だったろう。
前者はジグザク・デモ(レトロな名前)だったり、機動隊の楯への突進付きであったりした。
もう今の私には、ちょっとできない激しい運動である。
何を言いたい?
今さら、道をただ歩くデモなんて邪魔なだけだ、と言いたいのかな?
つまり、メッセージがないんだと思う。
そうやって、道を占拠し、道路を渋滞させるなら、その迷惑を受けた人へ何らかのメッセージが届かないと意味がないのでは。
私達は、こういうことを要求してデモをしている。
だから、迷惑だろうが、しばらく辛抱してくれ。
よければ、私達の運動に参加してくれ。
そんなメッセージなんか何も届いて来ない。
参加者は旗を持ったり、こぶしを振り上げたり、疲れた顔をしてだらだら歩いたりしているだけだ。
どこからも、命の叫びが聞こえて来ない。
ただ、スケジュールをこなしているだけではないか。
だったら、こんな行進止めた方がいい。
インターネットを使えば、誰にも迷惑をかけず、自分達のメッセージを送ることができる。
何故に、まだこんなデモ行進を繰り返すのか?
どこかへ集団で要求にいくのならまだしも、ただ公園に集まって、デモをして、またどこかの公園に集まって解散するんだったら、止めた方が合理的ではなかろうか。
伝統を守ろうと言う意識は、かえってこういう革新陣営に多そうな気がする。
もっと柔軟に戦術を変えない限り、若い世代は確実に離れて行く。
昔の全共闘世代のような、思想的ハングリー性は今の日本にはないのだから。
貧乏時代に開発した戦術は、貧乏時代にしか通用しないのだ。
又、ひとりひとりがハングリーでないから、こういった思想運動に自己を全人格的にコミットしようというインセンティブが働かないのは自明だろう。
今は、もう昔ではない。
ほとんどの人は、新たにほしいものがそれほど見つからない程、満足できる私生活を送れているのだ。
昔はよかった、今は堕落している等と、老人の繰り言で人々を貶めるべきではない。
昔はインセンティブがあった、今はないだけである。
デモ行進はノスタルジアではない。
邪魔なものは、邪魔なだけである。
日和ったとか、転向したとか、昔は運動から離脱したものをそう痛罵したものだが、今は誰が何をしても、お好きなようにという時代になったようだ、ここには危機意識は極めてプライベートな分野でしか働かず、むしろパブリックなものには近づかない人が多そうだ、と今日は少しだけ思想に触れてみた、中途半端な安部邦雄