デモ行進の話を昨日したわけだが、それと関係あるようなないような話をしてみたい。
メッセージのない行動は無であるということだ。
形だけの行動、単なるアリバイのための参加、みんなが行くからついていくという付和雷同。
色々な集団行動をとる動物の中で、人間はどういう位置を占めているのだろう。
とにかく全体でまとまって、種を守ろうという動物がいる。
草食動物に多いが、とにかく集団でいれば肉食動物に襲われにくいし、襲われたとしても全滅することはなくなる。
人間は、草食動物の遺伝子をひいているのか、それとも肉食動物のそれか。
ただ、集団の意志の中に埋没している間は、精神的なストレスは受けにくいのは確かだ。
主体的に行動しようとすると、とたんに周囲から無言のストレスを受けることになる。
長いものには巻かれろとか、寄らば大樹の影とか、ストレス回避という本能に起因する行動規範がことわざとなって伝えられている。
主体的に生きることは、楽ではない。
全体の流れに抗することは、ナルシスト的には支持される行動だが、集団的には結果的に排斥されてしまう。
水は高きから低きに流れ、その逆ではない。
逆らったところで、そのエネルギー分だけ、抗うものに負荷がかかるだけである。
だから、私は抗わない、そんな無駄なことはしない。
日本のサラリーマンのほとんどがこれである。
社会に逆らったところで、そのストレスを受けるのは自分だけである。
誰もそれを共有してはくれない。
そういう人間はどんどん草食動物になっていく。
肉食動物が襲って来ないかとびくびくしながらも、かりそめの平和に身を委ねている。
しかし、人間はただ草食動物として生きる為に産まれたで良しとするのだろうか。
抗わない生き方に進歩はない。
ストレスのない人生が、一体あなたに何を残すだろう。
人は、生きることの中にメッセージを残すべきだとする諺も多い。
虎は死んで皮を残し、人は死んで名を残す。
ほっておけば、水はただ低きに流れるだけだ。
それに抗う志が、メッセージとなって、他の人に伝わって行く。
ただ要領だけで生きていると思える人からは、心からのメッセージは伝わって来ない。
私達は生きざまというメッセージを送り続けることによって、自分の人生を充実したものに変えることができる。
近頃、そんな気持ちが日々強くなっている。
メッセージの伝わらない行動、それは無である。
カッコばかりつけたがる、若い人たちに捧げたい。
何か自分にとって不都合なことが起きた時、すぐに生まれるのは、誰かこの問題を何とかしてくれないかという依頼心だ、自分はとにかくこの場から逃げ出したい、困難な事態には直接対応したくない、だから草食動物はただ逃げまどうだけで、運が悪ければ襲われ、食べられてしまう、人はどこか草食動物だと、私が思うゆえんである、安部邦雄