考えれば、「同期の桜」という言葉はなかなか味があるなと思う。
桜花というのは、一年限りのものだ。
冷たい冬を過ぎ、春になり一斉に花開く。
その中で、精一杯春を謳歌し、別にこれといったことをするでもなく、少しずつ散って行く。
散り急ぐものあれば、散り残るものもある。
ひとときの宴のあと、桜花はすべて土に返る。
散る桜 残る桜も 散る桜
無常の世というか、何というか。
元いた会社の同期が2人いる。
どちらも、私には大変優秀に見えたし、評価もしていた。
他の連中よりも、はるかに仕事のできた男達だったが、今はもうどちらも元気がない。
どうしてそうなったのかは知らないが、50をすぎて、勢いだけでは生けていけなくなったと言うことなのだろうか。
何の才能もない、ただ今の状況を保守しようという連中ばかりが、会社の中で地位を得ていく。
劇的に環境を変えようという男は、たいてい組織からはじきとばされるのが関の山だ。
信長のような、特異な才能を持つものしか、次の時代を創世することはできない。
今の男達に必要なことは、今の時代に自分の才能を無闇に消費することではない。
ただ、今の時代を否定し、次の時代を創世する力を己の中に貯えることだ。
理屈だけでは、未来は呼び込めない。
知識だけでは、時代を変えることはできない。
同期の2人は、会社を否定するスタンスを持ちながら、次代を描く能力に欠けていた。
自分を愛することが、会社を愛することではないことに早く気づくべきだった。
会社で出世する男は、たいてい自分を愛することが会社を愛することにつながる連中だ。
自分を愛することが、会社を否定することになる男達は、残念ながらまっ先にリストラされてもしかたのない存在なのだ。
自分は桜なのだ、と思い直してほしい。
残る桜も散る桜なのだと、考えてみてほしい。
散りいそぐこともなかろう。
自分の運命を呪うこともなかろう。
他に、どんな生き方もなかったのだ、私達が桜だとしたら。
たとえ、50を過ぎたおれたちでも、まだ春を謳歌する時間はあるはずだ。
自分の生きた時代に乾杯しよう。
おれたちは、かく生きた。
そして、散る時は、見事散りましょ、国の為?。
しかし、国って何だ?
dサラリーマンにとって、会社は国であり、自分の住む世界だった、その為に身を犠牲にすることは、どこか尊いものがあると感じてしまうのは、やはり私が日本人であるからだろうか、ウソ偽りなく、私はFM大阪という会社を今も愛している、安部邦雄