板倉雄一郎さんという、ベンチャービジネスを志し、そして挫折した人がいる。
その人のことを知ったのが、板倉さんが自己破産して後、執筆した「社長失格」という本だった。
この本を紹介してくれたのは、今FM大阪東京支社にいる林君だった。
彼のクライアントである、加ト吉というスポンサーの担当に元長銀マンがいて、その人がこの「社長失格」に登場しているというのだ。
一度、読んでみたらと言われて、貸してくれた本が「社長失格」だった。
読んでみて実に参考になった。
どんなアイデア、技術があっても、時代を器用に生きて行く術を持たなければ、結局は破滅するという現実をつきつけられたような気がした。
ビジネスに必要なものは、まずアイデアである。
そして、そのアイデアを商品化し、流通に乗せ、ユーザーを獲得することによって、アイデアを中核とした構造を作り上げることである。
それは、決して自分だけでできることではない。
構造は、新しい人々を巻き込みながら、その中の誰かが、これを壊そうとしても壊れないものに成長する。
それを考え、商品化できた経営者でさえ、すでに自分の力では壊すことができない、それが完成したビジネスだ。
ベンチャービジネスが続かないのは、ほとんどそのビジネスが構造を持たないままに肥大化してしまうからである。
誰かが、悪意を持ってつぶせる段階のものは、完成したビジネスとはいえない。
板倉さんが考えられたビジネスは、今やいくつかのベンチャー経営者に受け継がれて、その発展期を迎えている。
ベンチャービジネスが構造として成立するには、まだもう少し時間がかかるような気がする。
マスコミにちやほやされて喜んでいる場合ではない。
板倉さんの「懲りないくん」という連載がWebにある。
最新号で彼は次のようなことを書いていた。
人は、誰かにした「好意」を大きく評価し、
誰かにされた「行為」を小さく評価する傾向がある。
1万円貸してやったことはいつまでも覚えているが、借りたことはすぐに忘れるということかもしれない。
1万円ぐらいは、貸すのも借りるのも忘れるという、金銭感覚の人もいるかもしれない。
昔の私はどちらかというとそうだったが、そういう人は金額を上げればいい。
100万円を貸したことは、自分にとって重大だが、100万円を借りることは、できれば借りてからは忘れてしまいたいことだ。
「あの時、100万円貸したよねえ。」
なんて、いつまでも言われるのは耐えられない。
しかし、自分が貸したことはずっと相手に意識しておいてもらいたいとと思うはずだ。
何を言いたいのか。
会社を経営する間には、こういった金にまつわる意識のずれに何度も耐えられなくなる経験をするということだ。
あんなに金を投資したのに、何故、投資した私がこんな待遇を受けなければならないのか、とか。
頼む、この際、会社を助けると思って、この場合の債務を免除してくれと泣きつかれ、じゃあ、仕事が順調になったら少しずつでいいから返してくれよと約束した。
その後、相手からは、なしのつぶて。
債務を免除したと言う事実だけが残り、相手はそれを忘れようとし、私はそれをいつまでも覚えている。
いいたいことはいくらでもある。
きっと板倉さんもいくらでも文句があるだろう。
いや、経営者ならほとんどの人が、そんな経験をしていることだろう。
社長失格、そう、こういう複雑な金銭のやりとりの中で、器用に世の中を渡りきれなかったものは、自己破産の陥穽の中にひとりひとり落ちて行くのだ。
返り血を浴びたことのない経営者は、経営の本質を知ることはない。
だが、誰が、返り血なんか浴びたいものか。
今は不況、デフレスパイラル、それゆえ、かって脚光を浴びた人が次々に沈んで行く時代、こんな時代、だれがリスクを持ってビジネスを起こそうと思うものか、大学をベンチャー起業の拠点にしようという発想は、結局誰もリスクをとりたがらない故の、姑息な官僚的政策でしかない、大学ならリスクはパブリックなものが負担してくれるだろうという浅知恵にすぎない、安部邦雄