周りの人が私をどう評価しているのか、それを知ることは悪魔のささやきを聞くに等しい。
だから、できれば本当のことは聞かないでいるのが一番幸せだ。
自己評価と他人からの評価は往々にして違うものだ。
放送局にいた時、一番生理的にイヤだったのが、会社における上司からの評価だ。
別名、査定などと呼ぶあれである。
査定は、給与の額(とりわけボーナス)に反映される。
幸い、私のいた職場では、査定などというもので給与は左右されなかった。
労働組合が強固に反対していたこともあるが、そういう形で労働者を競い合わせる必要がなかったのだろう。
今では、過半数の社員が管理職などになっているため、結果的に査定によって給与が決っているらしい。
組合員は査定されないが、管理職はされる。
まるで組合員という身分が、モラトリアムのように扱われている。
管理職なんて、単なる人を年令で機械的にあてはめているようなものだ。
いずれ査定されるのだから、定年まで組合員でいる覚悟がないのなら、査定制度を肯定しているのと同じなのだ。
組合員はそれぐらい気づいてもよさそうなものだが。
ま、いい。
査定と言えば、最近平社員が管理職を評価するという逆査定がトレンドらしい。
管理職に危機感を持たせるのが目的らしいが、姑息なやり方としか思えない。
管理職を正しく査定するのは経営者の職務だろう。
経営者は、自分で判断するのを回避する為に平社員の意見を楯にしているとしか思えない。
恨まれるのがイヤだから、管理職を切る為に平社員の意向を利用しようというのだろう。
それぐらいの責任が果たせなくて、何が経営者なのだ。
サラリーマン重役の限界か、それともインテリの姑息な世渡り術か。
私の友人はもう大体がこの査定をする側にいる。
彼はAのプラス、あいつはBマイナス、彼女は前はBプラスだったけど、今回はAマイナスにするつもり。
彼の職場環境を知っている私は、酒飲み話で査定を話題にする彼の言葉に納得したり、あきれたり。
考えたら恣意的すぎないか?
そんな理由で自分の給料の額を変えられたらたまんないだろう、と思うこともしばしば。
まだ、すべて歩合制にして、売り上げに応じて金払う方が合理的と言うものだ。
しかし、このやり方も、強者を基本にした世界だ。
世の中は、すべて強者を中心にして動く。
弱者はただ淘汰されるだけ。
サラリーマンの世界は、強者の論理が強い世界なのに、中途半端に弱者もそれほど不利もなく生きて行くことができる。
だから、内心みんなイライラしている。
温情的すぎるとか、逆差別だとか陰で言っていたりする。
今はその過渡期かもしれない。
どんどん、強者の論理が貫徹しはじめている。
働かざるもの、食うべからず。
何だ、そんなのあたりまえではないか、と思うだろう。
しかし、サラリーマンの世界では、ついこの間までそうではなかった。
役人の世界では、おそらく相変わらずこのあたりまえでない状況が続いていることだろう。
少しぐらい、査定をとりいれろよ、田中長野県知事なら言いかねないかな?
パブリック・サーバントとしての査定である。
これは、給与に跳ね返るかどうかは別にして、今行ってもいいかもしれない。
査定の話、少し論旨が混乱しはじめた。
もう少し、私自身の話にして明日続けてみたい。
私は基本的に天の邪鬼なので、査定で評価されても、あんたに俺を評価できるかと生意気を言うだろうし、悪ければ「殺したろか!」と思いかねないだろう、会社は私を査定しなくてよかったね、安部邦雄