毎日、ひとつでもいいから人の為になることをしよう。
即ち一日一善というわけだが、実際これを実行するとなると大変だ。
まず、街をただ歩いていてもそんな機会はなかなか訪れない。
こちらから探し歩いて、やっとそれらしい機会に出会えるぐらいだ。
意識していると意外とできない。
下手すると善意の押し売りになってしまう。
今日やった善というと、走ってエレベータに乗り込もうとする人をしばらく待ってあげたことぐらい。
本当は、鬱陶しいので先に行ってしまいたいのだが、息せき切って走ってくる人にそんな非情なことはできない。
ま、これで一日一善達成。
他に、あまりお客さんの入らない店で昼飯を食べたこと。
お店の人は喜んでいるはず。
これでも、善意といえば善意でしょ。
う?ん、しかし善行といえるもの、あまりやってないなあ、最近は。
私は電車でも気楽に席を替わってあげるタイプである。
お年寄りが前に立つと眠ったふりして、席を替わらない人が多いが、ああいった神経がよくわからん。
とにかく周りの人間とかかわりを持ちたくないかららしい。
老人に「どうぞ」という言葉をかけることもできない神経って本当にどうなっているのだろうね。
こんなことをするのにも勇気がいるのだろうか。
安っぽい勇気ではないか。
後、何がある?
募金をするとか、ボランティアに行くとか、困っている人を助けてあげるとか。
しかし、こんなことも善行と言えるのだろうか。
あたりまえのことをしているだけと言う気もする。
一日一悪というのもある。
毎日が楽しくない、生きている希望がない、とか言う人に効果があるそうだ。
悪いことを意識的にするということは、慣れないと意外と難しい。
人は正しいことばかりしろと言われ過ぎている面がある。
だから、どうしても自分を小さな正義の中に閉じ込めてしまって、精神的に行き詰まることがよくあるのだ。
だから、わざと悪いことをするのだ。
そうすると自分の小さな正義の枠が少しゆるむ。
行き詰まった心が、少し解放される。
だから、やってはいけないと思うことをやることが大事なのだ、それが一日一悪。
ただし、悪いことも後に引きずるようなものは止めた方がいい。
殺人とか傷害とか、相手だけではなくて自分も傷ついてしまうから気をつけないとね。
ま、それは極端にしても。
一日一笑というのもいい。一日一涙というのもグッドかも。
一日一怒、一日一楽、一日一新、一日一会、一日一浴、一日一筆。
ま、この更新も一日一考ということかもしれない。
一日に1つでも、一年だと365個だし、十年だと3650個になる。
万里の道も一歩から、コツコツコツコツ、日々これ努力ということか。
こんなことを書きながら、とてもスランプな自分を感じている今日この頃、何か頭がもひとつうまく働かないんだよなあ、安部邦雄