蝉の抜け殻を空蝉(うつせみ)と言う。
魂の抜けたうつろな身、という意味もある。
最近はあまり使わないが、平安時代の頃の書物にはよく出てくる言葉だ。
夜半すぎ、近くの林まで散歩に出たのだが、あちこちに空蝉を見つけた。
大体、私の目線より下の木の幹にへばりついていたのだが、中には、すぐ横に羽化したばかりの蝉がじっとして動かないのが2匹程いた。
種類はどちらもアブラゼミで、羽根は茶色ではなく、まだ灰白色。
完全な生体になるまで、じっと我慢しているのだろう。
全く動かないのが印象的だった。
手を伸ばせば、いくらでも捕まえられたが、せっかく土の中から出て来たのに、一度も飛ぶこともなく私にもてあそばれるのも可哀想だったので、観察するだけにした。
しかし、羽化した蝉が、空蝉の横でしばらくじっとしているのだとは知らなかった。
もっと、上までとりあえず登ればいいのにと思った次第。
今年は、何となく蝉が多そうである。
一晩で、あんなに空蝉を見るなんて、これからどんどん羽化してくるのかもしれない。
尚、空蝉はその後どうなるのだろうかと思っていたら、その答えがある木の幹を観察してわかった。
大アリが空蝉の周りに集まってきていて、どんどんバラバラにして運んで行っていたのだ。
うまくできているものだ。
森の掃除屋さんって、他にも一杯いるのだろうな・・・。
暮れてなお 命の限り 蝉しぐれ
これは中曽根元首相の句である。
あまり好きになれない政治家だったが、この俳句だけはよくできていると思った。
80すぎても、まだまだ啼くつもりなのだろう。
その意欲には、若輩者として頭の下がる思いだ。
森には色んな神秘が潜んでいる、妖精だって住んでいても不思議がないと思いながら、今夜も暗い道をひとり歩む、安部邦雄であった