今日は終戦記念日。
先の大戦でなくなった人々を追悼し、2度と誤った戦争を起こさないことを全国民で誓いあう日なのだろう。
お題目はその通りだ。
ただ、実際はどうだろう。
高校野球で12時になったらサイレンがなり、全員で黙とうすることしか、現実には終戦記念日を感じられることはないと言う人もいる。
先に誤った戦争と言ったが、最近は一部の人たちの中から、あの戦争は必ずしも誤った戦争ではないという論調が現れはじめている。
やむにやまれぬ戦いだったのであり、他に当時の日本にどんな方法があったというのだ、と彼等は叫ぶ。
残念ながら、私は当時の日本の状況など生まれていないので知らない。
戦後、語られて来た歴史は、すべて自虐史観で書かれているから信頼に値しないと彼等が主張しても、その歴史を見て来たものではないから、具体的な反論はできない。
ただ、思うのは、そんな論調を持ち出す人は、結局何が欲しいんだろうということだ。
何かを主張する人は、何らかのインセンティブがあるはずなのだが、それは一体何なのか。
自分の嫌いな奴、嫌いな連中の主張、歴史観が正統性を持って語られているのが、とにかく気に入らない。
だから、この主張を否定し、打倒することによって嫌いな奴を葬れるという心理なのかもしれない。
論争と言うより、粘着というか、お宅的というか、好きか嫌いかが優先され、正しいか間違っているかなどという尺度はどうでもいいように扱われている。
これによく似ているのが、損か得かで動く人が増えていることだ。
自分にとっては得でも、それをやっては全体のバランスを崩すと思えば、そういう選択はすべきではないと先達は私達に教えた。
自分にとって損でも、それが人々を幸せにするなら、あえてその選択を厭うべきではない、そういう教えもあった。
宮沢賢治のグスコーブドリの話は、その典型である。
だが、今そんな考えを持っていたら、世の中にいいように利用されるだけだというのは確かなようだ。
善人を欺き、利益を得る。
これが今の商売の基調をなしていることも事実だろう。
日本ハムの例は、この1つである。
前の戦争は決して間違ってはいない。
だから、その為にお国のために戦死して行った人々の行いはすべて正しく、尊厳であったのだ。
だから、愛国心は今も大事なのだ。
愛国心が持てないから、今の若者はこんなにダメになったのだ。
まず靖国神社を国民に敬わせろ。
時代の変化は、何かの否定から始まることが多い。
戦後の日本の躍進は、戦前の日本を否定することから始まった。
その否定から、新しい日本が生まれ、世界の奇跡といわれるほど躍進した。
今はその躍進に倦みはじめているのかもしれない。
だから、躍進を作った否定を、又次の世代が否定しはじめたというわけか。
で、その後に、どんな日本を作ろうというのか。
その議論をすべきではなかろうか。
枝葉末節をとりあげて、つまらない言い合いばかりしている時ではない。
そんな間に、日本の官僚たちは、昔のように自分達の面子のために又馬鹿な選択をしかねないのだ。
必要なのは議論である。
レッテル貼りや、姑息な論点のすりかえばかりしていてはいけない。
折しも、今日の追悼式で、小泉首相は、戦後の不戦の誓いを堅持すると言った。
まず、不戦について議論することから始めてもよいのではなかろうか。
戦わないのなら、何故に自衛隊はそこにあるのか?
何故に、有事法案が必要なのか?
もっとリアリティを持った言葉で、本当の議論を始めてほしいと私は強く思っている。
戦争の悲惨さを語り継ぐ義務はあると思っても、いかんせん私は戦争の経験は全くない、そのイメージすらテレビや映画からの借り物にすぎない、それでも戦争を憎み、不戦の誓いを強く持つ私、それが本当に正しいか、最近よくわからなくなってきた、安部邦雄