男というのは、権力が好きだとよく言われる。
権力とは何だろう。
人を支配する力、しかもそれが、集団の中で認知されていること、ぐらいの意味か。
権力欲というのは、結局、人を支配したいということなのだろう。
人を支配すると何かいいことがあるのか。
自分の欲求に従って、自由奔放に生きることができる、基本的にはそういうことだろう。
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
かけたることも なしと思へば
道長の作と言われる、ごう慢きわまるこの歌も、権力者が描く理想の姿と考えれば、それなりの価値はあるかもしれない。
別に権力者は孤独だとも言う。
どんなことでも思うがままなのに、何故孤独なのか。
ひとことで言うと権力者には仲間がいないということだ。
周囲の人間は、自分の服従者か敵である。
権力者には、それゆえ仲間が存在しない。
自分を対等の人間として扱い、胸襟を開き、体験を共有したりできる友がいない。
「利家とまつ」で、利家があたかも秀吉の仲間のように描いたりしているが、あんなことが実際にあるはずもない。
最高の実権を握った秀吉が、自分に服従しない武装集団を見過ごすはずもなかろう。
利家は武装集団の頭領なのだ。
いつ、敵にまわるかわからない。
となると、服従させるか、殲滅するかしか選択はない。
非武装で話し合いによって解決する時代ではないのだ。
一人の武将の後ろには、強固な武装集団がいるということをドラマは忘れがちだ。
話せばわかるような時代ではないのだ。
話がそれた。
権力者の孤独は、往々にして権力者を鬼に変えるか、敬けんな宗教者に変えたりする。
いくら権力があっても、己の生死までは支配出来ない。
秦の始皇帝が不老不死の薬を世界に求めたというのもその1つだろう。
皇帝ネロが自堕落な生活に陥るのも、そういった孤独ゆえ、己の存在の危うさ故だったのかもしれない。
最近の権力者はどうなのだろうか?
鈴木宗男という政治家は、ある意味では権力者の地位をひたぶるに追い求めた典型であろう。
にしても、その最後は簡単にやってくる。
民主主義というものが、権力者をちょっとした気まぐれで追い落としたりするからだ。
権力というものはまことに厄介なものである。
手に入れた時から、心の平静は失われるということを覚悟するしかないのだろう。
ほんと、平凡に生きることが、幸せだと思うなあ。
大阪の放送局にいた頃は私も権力者のはしくれだったかもしれない、でも、その自覚はまるでなかった、本当はもう少し権力の醍醐味を味わいたかったなあ、安部邦雄