人類は時計を手に入れた時から不幸になったのではないか?
時間という抽象的なものを何で計ればよいのか?と考えた時、最初はまず天体の動きだったろうと思う。
太陽が昇ると朝。
沈むと夜。
その間を何等分かして、目安にしよう。
それが、日時計の始まり。
夜は、はかる目安が必ずしもはっきりしないから、(曇りでは月も星も見えない)、ある法則性をもっているものを参考にしよう。
それが水時計の始まり。
ま、これは雨の多い日本らしい解答。
考えれば、メソポタミアとかエジプトとか、雨が降る日もあるだろうが、何となく毎日空が晴れているような印象がある。
ひょっとしたら、時間と言う概念は、常に空がピーカンの気候を持つ地域で発達したのではなかろうか。
雨が毎日毎日降ったり、雪がどかどか降ったりするところでは時間なんか計ろうにもはかれないのではないだろうか。
時間という概念が便利だと最初に思ったのは、熱帯に近い少雨の場所に住む人類だったのではないか。
ま、これも単なる思いつきだけど。
で、最近思うのだが、時間なんてそんなに重要だろうかということ。
何時に寝て、何時に起きてとかいうのも、何だか自分の精神状況にストレスを与えているような気がしてならない。
時間と言う概念が全くなければ、どれだけ人間は気楽に生きて生けるかと思うと、朝から晩まで時間に追いまくられる人生が何だか哀れでしかたがない。
諸行無常とか会者定離とかいう概念がスムーズに受け入れられるのは、時間を超越するからではないだろうか。
つまり、人間世界は、別に何かが定まっていて、何かが定まっていないとかいうのではなく、元々何でもない存在なのだということだ。
時間なんて概念を持込むから、定めることが必要になってきたりする。
そうやって、人間社会は発達するが、世界自体はひどく危うい存在になりかねない。
時間というのは、考えれば考えると整理しにくい課題ではある。
時間を考えなくともいい環境って、とても人間という生物には優しいと思うのだ。
それが時間からの解放ということかも。
全く時間を意識しないで生きること。
今さらそれを望むのは遅いかもしれないが、悟りの境地とはひょっとしたらそういうものかもしれない。
時間に対するとりあえず問題提起的なものを書いたけど、理解的にはまだまだな私、しかし、一体人間は身体のどこで時間を意識しているのだろうかね?安部邦雄