昨日の更新、後で読み返すと単なる事実の羅列で終っていた。
この欄は私のイデーを開陳する場所と言っていたのに、ぼやきとか怯えとかを書き連ねているだけ。
かくてはならじ、と再び落とし物系の話題を取り上げたい。
昨日は定期入れを失った話だが、こういう経験って、年に1?2回はある。
財布を落としたり、カバンを放置したり、名刺入れを銀行のATMの上に置き忘れたり。
その度毎に、心ここにあらず状態。
しかも、心のどこかで、これは夢だ、現実じゃないと叫んでいる自分がいる。
そう、私はしばしばモノをどこかに置き忘れる夢をみるのだ。
目覚めれば、やはり冷や汗一斗、心のどこかにいつも何かを失う恐怖が存在するからだろう。
最大の失う恐怖。
おそらく、自分を失う恐怖ではなかろうか。(つまり自分の死?)
自分が大事だと思うものを失う度に、自分を失う恐怖を呼び起こすのかもしれない。
それでなければ、こんなにモノを失うことにおどおどするはずがない。
でも、幸いにも現実世界では、失ったものは大抵出て来ている。
昨日もマックのバイト君の好意で何とか定期入れは戻って来たが、最近では他にもフォルクスに置き忘れた名刺入れが戻ってきたとか、サイパンのホテルのロビーにパスポートや財布の入ったカバンを置き忘れ、あわてて取りに行ったら、そこにはなかったがフロントの後ろに置いてあったりした。
携帯電話をタクシーに置き忘れた時は、急いで携帯に電話。
運転手さんに受けていただいて、私のいるところまで持って来て下さった。
親切というか、その行き届いたサービスに感激したものだ。
本当に失ったのは、ある図書館のトイレにカバンを置き忘れ、しばらく気づかずにいた。
で、あ、カバンがないと気づくのだが、私はトイレに置き忘れたのだとは思わなかった。
少し離れたそば屋に忘れたのだと思い、引き返すもなし。
やっぱり図書館で置き忘れるしかないと考え、館員さんに聞くもそういう届はないとのこと。
もう一度トイレをチェックに行くと、大の方の隅っこにバッグが置いてあるのに気づいた。
あ、あったと一先ず安心したが、中にあったイブサンローランの財布は抜き取られていた。
がっくり。
警察への届等をしながら、図書館に来る人には悪人(泥棒)はいないというのは明らかに間違いだと強く思い直した。
これじゃ、本を盗む奴もいっぱいいることだろう。
もうひとつ、これは完全に私が悪いケース。
バリ島で泳いでいた時のこと。
私は、水着ではなく普通の半パンで海で遊んでいたのだが、さて部屋に戻ろうと思って、鍵のないことに気づいた。
鍵はいわゆるカード・キーで、やはり定期入れに入れておいたのだ。(昨日と同じような状況ですね)
キーがないと部屋に入れないし、しかも、こんな外国でクレジットなどの入ったパスケースを失うなんて。
どこに入れたのか、そう半パンの中に入れておいたのだ。
おそらく海で泳いでいる内に、ポケットから出て行ったのだろう。
あ?あ、何故、普通の半パンで海の中に入ったのだろう。
しかも、長い間、沖の方まで行ってもぐったりした。
流されたとしたら、とても見つけること等不可能だ。
フロントで予備のキーをもらい、しばらく部屋でボー然としていた。
まわりのものが、その時はほとんど見えなくなる。
いわゆる視野狭窄という状況。
人間が常に、正常な判断ができる存在ではないと実感する時である。
そう、人間なんて、いつもいつも脳の統合された正しい判断ができるはずはない。
どんな時でも平常心でいるなんて不可能だ。
もしそれができる人がいるとすれば、その人は何に対しても執着しない人だろう。
何を得ようと、何を失おうと、すべては無常と悟ったひとだろう。
そんな人に失う恐怖はきっとないはずだ。
もちろん、自分を失うことにも拘泥しないはずだ。
悟った人は、死を恐れないのではない。
自分を失うことにそれほどの感情を動かされないだけだ。
そうか、一度死にかけた人が、その後あまり死を恐れなくなるのは、きっとこの自分を失うことに恐怖を感じなくなるからなのだ。
財布を失おうとカバンを失おうと、自分の肉親を失おうと、それだけで自分の判断力を奪われることはないのだろう。
悟るというのは、ひょっとしたら、失うことを恐れないことなのかもしれない。
ああ、歳をとるだけで少しも人生を悟れない、私。
長?い、ため息が出るなあ。
失いたくないもの、部屋とか車の鍵、買ったばかりの自転車、携帯電話、運転免許証、長年続いた友情、私の肉親達、仲間達、そして私の家来ども、仕事、安部邦雄