朝夕、ぐっと冷え込む季節。
散歩道の樹木も、少しずつ葉を落としはじめている。
時々どんぐりが空から落ちてくる。
パラパラパラ、秋だなあ。
本田路津子さんの歌に「秋でもないのに」という歌がある。
秋でもないのに、というのだから季節は秋ではないはずなのだが、何故か秋になるとこの歌を歌ってしまう。
秋でもないのに ひとりぼっちが
切なくて ギターを弾けば
誰か窓辺で 遠くをながめ
歌っているような?
共感しながら、ギターをつま弾いた日、もう30年以上の前のことだ。
窓辺、ギター、風、そして孤独。
秋は、心の中をそうやって騒がせてくれるのだ。
秋と言えば「誰もいない海」も忘れられない。
今はもう秋 誰もいない海
そういうだけで、真夏の喧噪がどこからか聞こえてくる。
その時の華やかさとの対比で、この歌詞はいよいよ寂寥感がまして行くのだ。
確かに、この季節、海に行けば、ただ波の音しか聞こえて来ない。
近くの人が、犬を連れてたまに散歩に訪れるぐらい。
昼の太陽は、まだ夏の光を失ってはいないが、それを見る観客はもうこの砂浜にはいないのだ。
今日、NHK教育で会津八一の歌を紹介していた。
かすみたつ はまのまさごを ふみさくみ
かゆきかくゆき おもひぞわがする
「かゆきかくゆき」という表現がいいなあ。
八一はそうやって、砂浜を逍遥したのだろう。
言葉は頭でこねくりまわすものではなく、自然と身体からにじみ出るものでなければいけない。
それで、初めて言葉と自然が一体化するのだとう思う。
言葉を人工物を作るコンクリートのように使っている間は、心から感動を伝える手段にはならない。
食欲の秋とか読書の秋とか、そんな言葉の羅列が創りだせるイメージは、今や大量生産された既製品(ユニクロ)のイメージでしかない。
言葉と身体のマッチング、それこそ今の時代に足らないものだと思う。
さて、その為に、この秋をどう過ごすべきなのだろうか?
ちょっと、ギターでもつま弾いてみようかな?
♪秋でもないのに? あ、またこれか?
人恋しい季節、それが秋、でも、私の周りには・・・・、安部邦雄