学生時代につきあっていた女性から、こう言われた事がある。
人間には農耕型と狩猟型がある。
でも、貴方はどちらでもない、しいて言うならさすらい型だ。
当時の私は、全共闘崩れの詩人気取り。
ランボーの詩の一節「さあ、行こう、ボヘミアンのように」という生き方に憧れていた、中途半端な男。
その男と中途半端につきあっていた女性の皮肉(それとも精一杯理解しようとしたのかも)たっぷりの言葉だと思っていた。
ボヘミアン、少し前に葛城ユキのヒット曲にもあった。
ボヘミアン・ラプソディといえばクイーン。
ボヘミアンと言うのは、文字通り言えばチェコ西部のボヘミア地方に住む人を指す。
それが西ヨーロッパに流れ、ジプシーという流浪の民へと変貌していったらしい。
ランボーが憧れたボヘミアンは、当時(19世紀)のフランス社会の規範を否定し、それからできるだけ自由に生きるアーチストという意味だった。
社会のしがらみから独立し、己の自由意志で多様な選択が可能な人格、それが当時の私が意図していた人間像だった。
しかし、学生程度の社会認識では、これらの達成は全く不可能だった。
観念的には何とでも言える。
しかし、それを生きざまに据えるには、人間としての空間が狭過ぎたのである。
自由の為に必要なこと、それは自分の空間を自由に扱えることである。
どこに何があるかわからない、自分の能力が一体どこまであるのかがわからない。
そんな未熟な人間存在に自由はあまりにも重過ぎたのだ。
ボヘミアンを気取ってみても、そこにあるのは滑稽なキッチュである。
そんなことを、心のどこかでは危惧していても、結局この年になるまで本質的に気づかない。
人間の悲しい性ということになる。
すべてを気づいた時には、もう人間はどうすることもできない。
しかし、学校教育は何故こんな重要なことを教えないのだろう。
中途半端ばかりが毎年毎年産み出される。
それが今の学校、文部科学省の教育方針なのだ。
国を愛する気持ちをもう一度教育し直そうなんていうのも、教育と言うのを分かっていない証拠だ。
教育とは、結局中途半端を産みかねないという冷厳たる事実を前提にして行われるべきのものであることを忘れてはいけない。
愛国心教育は、中途半端になると国粋主義、排他主義となって戦前の日本のような状況になりかねない。
教育は、本質的に中途半端な結果を産む傾向があることをまず知らないといけない。
中途半端なボヘミアンがそういうのだから、間違いない。
年をとればとるほど本質に近くなったからといって、今さらどうしたらいいのか?歴史はただ繰り返すしかない、下手に力んでみても、単なる猿芝居になるのが落ち、所詮この世はケセラセラ、安部邦雄