猫というフォーク・グループがいた。
72年に「雪」「地下鉄にのって」というヒット曲があったが、今では知る人も少ないかもしれない。
彼等が吉田拓郎のバックバンドであったこともあり、どちらも曲は拓郎さん。
「雪」は、冬のリクエストの定番だった。
今では「なごり雪」にリクエストはあっても、猫の「雪」をお願いしますというのはほとんどない。
しかし、バンド名の「猫」というのは漫画みたいである。
私の知るところ「犬」というバンドはなかったような気がする。
「狸」とか「狐」というのも、あまり聞いたことがない。
バンド名に「猫」とつけた経緯は一体何だったんだろう?
おまえら、ミャアミャアミャアミャアとうるさいぞ。
ついでだ、猫とでも名乗っておけ!
なんて拓郎さんが無理矢理つけたのかもしれない。
フォークグループって、どこか体育会系的なところもあったしね。
「地下鉄にのって」は、私が丸の内線に乗る時、時々心の中で歌っていたりする。
丸の内線で、銀座から新宿に向かう行程での恋人未満の女友達との心の葛藤をそのまま歌にしている。
バンジョーの音がとてもイイ味を出していた。
テレビ神奈川の公開録画のビデオが残っていて、一度BSのフォーク大全集で放映されたのだが、こちらも聞きごたえ十分と言うところだった。
以上が、今回のイントロ。
少々長過ぎたかも。
今日、地下鉄に乗っていたのだ。
大江戸線に乗って、六本木を越え麻布十番に着いた。
すると、やや背中を丸くした、おぼつかない足取りの男が私の前を通り過ぎ、斜前の席に静かに座った。
疲れていると言う表情、まるで老人のように顔に水気がなかった。
どこかで買った、パック入りのジュースをストローで静かに吸っている。
初老の男、でもその顔を見ながら、私はその男が昔の知人であることに気づいた。
私とそんなに年が違うわけでもない、でも、その顔の艶はどうみても60代後半という感じだった。
私は、声をかけるのを躊躇した。
業界でバリバリ働いていたころの彼とまるで違うその覇気のなさ。
疲れ切っているというのか、伏し目がち、そして背中は丸い。
一体、人の覇気というのは何から起因するのだろう。
そういえば先日の「利家とまつ」で、秀吉が死んだ。
単なるドラマといえばそれまでだが、天下を取ることにまい進した秀吉の姿はどこにもなかった。
老いさらばえた、抜け殻のような存在。
これが、あの秀吉か?と誰もが思ったことだろう。
「忠臣蔵」にしてもそうだ。
吉良上野介がどれだけ憎たらしい男でも、雪の中に引き出された彼は、ただただ哀れである。
こんな精気のない老人を殺して一体何になるというのか。
老人でも確かに憎たらしい奴は一杯いる。
しかし、それは彼等が老人のくせにやたら元気だったり、威張ったりするからであろう。
土気色をして、全く覇気のない老人は、私には哀れな存在でしかない。
話がそれてしまった。
私の斜前にすわった知人は、見事にそれだった。
声をかけるべきかどうかを考えながら、ずっと新聞に目を落としていた私だったが、彼は大門で悄然として降りて行った。
昔の彼と今の彼の間には一体何があったのだろう。
使用前と使用後という感じだろうか。
私は、人生の不条理を考えながら、ホームをとぼとぼと歩く彼をしばらくじっと見つめていた。
花が自然としおれるように、人は老いさらばえ朽ちて行くのかもしれない、安部邦雄