またまた間違った。
ジョン・レノンの「シェイブド・フィッシュ」(邦題はジョン・レノンの軌跡だって)の一曲目は「マザー」ではなかった。
もちろん、当時はまだアナログの時代だから、A面だけではなく、B面にも一曲目はあるのだが、これも「マザー」ではなかった。
肝心のアルバムが手許にないので、これらの情報が本当に正しいかどうかわからないが、おそらく私の記憶違いであろう。
昔の記憶は、時間の経過とともに様々に変容されるのが普通だ。
記憶をたよりに書くのは間違いのもとだが、個人的にはあまり気にしないようにしたい。
記憶の不滅なんてダリが描いていたが、実際は記憶程変質するものはない。
記憶が不滅なのではなくて、きっとトラウマ(精神的外傷)が不滅なのだろう。
人間が不滅でないのに、記憶だけが不滅なんてこともありえないし。
ジョンが死んでしばらくしてから、「ぼくはFMしか知らなかった」という本がFM大阪の開局10周年を機会に共同通信(当時FMfanを発行していた)から出版された。
その中で、あるディレクターがジョンの死を聞いて、すぐにFM大阪はジョンの特集をやるべきだと主張したという。
通常の番組をとっぱらっても、ジョンに対する鎮魂の気持ちを局として表現するべきだというのだ。
それが、音楽を愛するリスナーに支持されるFM局のつとめだと。
だが、周囲は冷ややかだったと言う。
もう、ジョン・レノンの時代ではない、一人で舞い上がるなという意見まであったらしい。
昨日も書いたが、こういう制作部内で起こったことは、新米の営業マンとして苦闘していた私には全く預かり知らないことだった。
私が知ったのは、本が出版されてからである。
へえ?、そんなこともあったんだなあ。
でも、このディレクターの気持ちはよくわかる。
別に自分の趣味で言ったわけではないだろう。
放送局が本当にリスナーに支持される為には、こういったニュースに即対応し、フレキシブルな編成が組めるようでないとだめだということだと思う。
ラジオ局なんて、結局こういう体制が組めるかどうかで、リスナーからの反応は違ってくるはずだ。
そうそう、先日の箱根の研修会で、FM大阪のある人から阪神大震災の時の話を聞いた。
地震で大混乱の中で朝早く会社に出社した彼。
情報も断片的でしか入らず、特別番組を編成しようにもほとんどの社員が出社出来ない状況。
しかし、ただ会社にいて手を拱いていてもしかたがない。
そこで、彼は同僚に「会社にいてもしかたがない。現地に行って、生の情報をレポートしよう。幸い、会社には自動車電話のついた役員車がある。それで実況しよう。」と言った。(当時は、もちろん携帯電話なんかそれほど普及していない。)
二人は、そして役員車に飛びのり、阪神地区へ向かった。
そして、そこから一日中、現地の情報をFM大阪の特別番組に送り続け、全国のFM局の要求にも随時レポートの形で対応したという。
そして、この二人、どちらも報道担当でも何でもない立場だった。
この話を聞かせてくれた彼は、かってアナウンサーとしても活躍していたことがあったが、そんなのは10年以上も前のこと、勘を少しずつ取り戻しながら、何とかこの長丁場を乗り越えたということだった。
そして、いつもFM大阪を凌駕することだけを考えていた大阪の新しいFM局は、なすすべもなく、ただ音楽を流し続けていただけだったという。
そう、ラジオ局の真髄は即応性なのである。
ルールや、慣行なんかを遵守しているだけでは、結局はテレビには太刀打ち出来ない。
ジョンが亡くなった時、全く対応出来なかったFM大阪が、この時は不十分ながらリスナーが知りたがっていることに、無頓着ではなかったということである。
それでこそ、放送マンですね。
懐かしそうに当時を語る彼を、私は思いきり祝福した次第である。
おそらく昨年のジョージの死が伝えられた時も、ビートルズの特集をした放送局は少ないだろう、何故ならジョージはビートルズを代表していたとは誰も認識していないからだ。その時は、ポールの死が伝えられた時かもしれない、私がその特集を聞けるかどうかも定かではないが、安部邦雄