大河ドラマ「利家とまつ」が今日あっけなく終わった。
前田利家が死ねば、いくら「まつ」が生きていても、そこから話は発展しない。
実際、ドラマのような活躍をまつがしたのかどうか、知識のない私には口を差し挟む余地はないかもしれないが、何となく釈然としない面も多い。
お家大事が武家社会と言う台詞が出てくるのだが、それは江戸時代からではないのかという疑問もある。
家が大事なのは、それが領地等の相続の基本だからであろう。
富とか価値とかの相続は家単位で行われる。
だからそれを世襲する基礎単位である家が大事になるのである。
しかし、戦国時代には、そんな世襲制よりも、力による支配が前面に出てくる。
家制度なんか力の前には何の役にも立たない。
家が意味を持つのは、あくまでも平和あってのゆえである。
しかし、「利家とまつ」は色々と面白いところもあった。
信長の「?であるか」というのも言葉づかいとしては面白い。
本当にあんな言い方をしたのかは知らない。(多分してないだろう)
しかし、あの言葉づかいで彼が信長であることがよくわかる。
昔からNHKにはこういうキャラクター付けが多いと思う。
古い話で恐縮だが、「ひょっこりひょうたん島」の前番組に人形劇ドラマ「チロリン村とくるみの木」というのがあった。
ここに登場してくるキャラクターはすべて語尾に特徴があった。
黒柳徹子さんが声を出していたピーナッツのピー子は「?ええとこだわさ」と必ずいい、
イタチのプー助は「ぷーちゃ」といい、腹ぺこ熊は「ペコポン」といい、カッパのカー助は「コンキリプー」と必ず言っていた。
つまり、群集劇というのは、人が出れば出るほど誰が何をいっているのかわかりにくくなる。
そこで、台詞にその人物しか使わない語尾を加えておくと、その語尾を聞いて誰が言ったかわかるようになる。
そういうわけで信長の「?であるか」を面白いと思ったわけであるが、私の言いたいことおわかりいただけマンモス?
「利家とまつ」に戻る。
仕方のないことだが、大河ドラマはたいてい主人公の死で終わる。
子供の頃?青年期?いよいよ社会で活躍開始?壮年期?老年期?死。
人生の典型が毎回違う人物によって様々に語られる。
自分も50を過ぎ、そろそろ老年期を考えるようになると、一番気になるのが主人公の晩年である。
一体、この人物はこんな状態に満足していたのだろうか?
秀吉の辞世といわれているこの歌
露と落ち 露と消えにし 我が身かな
なにわのことも 夢のまた夢
年老いてからの自分の生きざまはどこか夢のようなところがあるのだろう。
何故なら、それらはもはや記憶の中にしかないからだ。
元気な自分、いつまでもあると錯覚しそうな時間、それらがもはや自分に残されていないことは明らかだ。
夢の中にそれを見るしかない。
夢の中で過去を必死に生きるしかない。
もはや自分が元気に走り回れる時間がないと感じたとき、人はすべてが夢物語と人生を達観するのかもしれない。
夢幻のごとくなり。
まさに、その通りなんだと思う今日この頃である。
とはいえ、個人的には今はまだ関ヶ原前夜という感じか、まだまだ先が長いなあという気分も否定できない、安部邦雄