商売というのは、別名「商い」。
「あきない」というのだから、いつまでも辛抱強くやりなさいという教訓が込められているという。
1つのことでも、ずっと長くやれば、そのうち何とかなるものだ、という風に教えられて来たものだ。
商いは牛のよだれ、というのも同じ意味。
ちょっとダメだからと言って、挫けてしまうようではダメということなのだろう。
しかし、この言葉、最近どうなのだろう。
ただ商売を漫然とやっていても、それだけではもはや儲からないような気がする。
昔は、商店街に店を出して、気長にお得意を増やして行けば、何とかおまんまは食えた。
商店街には、八百屋があり、果物屋があり、肉屋があり、乾物屋があり、電器屋があり、パン屋があり、食堂があり・・・。
どこも、贅沢さえしなければ、同じように店は維持できた。
でも、今はどうだろう。
ただ、漫然と店を出しているだけでは、客は減る一方。
昔からのなじみは確かに店に来てくれるが、新規の客はたいてい郊外の大型店にとられてしまう。
なじみの客も、遠くへ引っ越したり、死んでしまったり。
もう、儲かる商売とか、儲からない商売なんていうのは、外から見ただけではわからない。
どこも華やかに見せていないと客は来ないが、華やかだからと言って儲かっているとは限らないのだ。
昔は、銀行なんて儲かって儲かってしかたがなかっただろう。
いくらでも、預金は入ってくるし、貸す相手はいくらでもいた。
今は、優良な借り手がいない。
金融派生商品というものがアメリカ資本とコンピュータの力で開発されてからというもの、金を集めて企業に貸すだけではだめだなんていわれるようになった。
何故かグローバル・スタンダード等と言われて、日本の護送船団方式とやらも取り止めになった。
とたんに銀行屋は、儲ける方法を見失ってしまった。
今の儲けは、国策であるゼロ金利に支えられてのもの。
しかし、それは不良債権の処理に一方的に使われ、産業を活性化する方向へは使われない。
護送船団方式でよかったのに、と銀行屋はため息をつく。
私関連では、放送局もだんだん儲からなくなって来た。
広告費が減っているというのも影響されている。
しかし、それ以上に放送局の寡占化が揺らいでいるということも影響している。
放送局が今までのように、漫然と店を開けていて、殿様商売していたら、とてもじゃないがこれからの時代には対応出来ない。
政府の擁護の下に、我が世の春を味わって来た業界は、もはや実際に消費者と向かい合う術を知らなければ、2度と春はやって来ないだろう。
同じことをずっとやっていれば、商売は成り立つと言ったのは、もはや役に立たない。
かといって、中途半端な気持ちで商売をやるのは論外だ。
ついこの間まで、その安売り政策をもてはやされたマックが大赤字。
吉野家もおそらく客は減る一方だろう。
客の単価は下がり、回転率も悪くなる。
商売の神様は、もはや日本にはいない。
できれば、その神の役を私ができるものならば、と思うのだが、今のところは何のご託宣も出せないでいる。
試行錯誤する神様なんて、誰も信じてはくれないだろう。
とはいえ、経営者と言うのは社員にとっては神みたいなもの、試行錯誤といって、嬉しがっているわけにもいかないしなあ、安部邦雄