DAWは放送局にとってシンプルでもイージーでもない。
何と潔い断定の仕方だろう。(自分で言うのも何だが)
おかげで、身内の中から強いオブジェクションを受けてしまった。
DAWは便利だ。
不便だと言う人の気がしれない。
DAWはある人たちにとっては夢のような概念なのかもしれない。
すべてがデジタル化すれば、どんなものを処理するにしてもデジタルという同じ単位でできるわけだから、便利に決っているではないか。
うん、それはその通りですねえ。
デジタル化すれば、すべてが同じ操作で処理できるようになる。
マックがどんなソフトを使うにせよ、その操作を同一化できたというのも、デジタル志向ゆえだったのかもしれない。
いや、これはちょっと違うかも。
さて、次世代の放送システムDAWに私はどんな疑問を持ちはじめているのか。
ひとことで言って、これは番組制作の進化に役立っているのかということだ。
番組を作るというのはどういうことなのか。
一ディレクターに戻って考えてみたい。
エフエム大阪とエフエム東京は、現在どちらもこのDAWを導入している。
エフエム東京は、番組を作る時、曲は曲、コメントはコメントとして別々にとるシステムになっているらしい。
それゆえ、番組を作る時は、番組のクレジットを録音し、後は電子キューシートにそって、データを流し込んで行くことになる。
コメントもデータのひとつということになる。
制作者には、それが最終的にどうなるか、具体的なイメージを得られるわけではない。
しかし、個々のデータが正しければ、番組は電子キューシートにそった形で作られているはずということになる。
これで、制作者は収録を終っても良い。
60分番組を30分でとることも可能になるのだろう。
つまりノン・シークエンスな番組制作である。
シークエンスな番組作りと言うのは、それゆえ生番組などに見られるだけになるのかもしれない。
ディレクターの意識改革が必要になると、放送関係者は言っている。
ばらばらのデータをキューシートに流し込むだけで、番組が成立し、そのキューシートだけで、実際の番組をイメージできるかどうかも重要になってくるのだろう。
はて、これで良いのだろうか?
エフエム大阪では、ノン・シークエンスな制作の仕様は採用していないということだ。
やはり、番組制作というのは、リアルタイムに時間を重ねて行く結果であるべきだという。
だから、時間軸に曲のアイコンをドラッグ&ペーストして事足れりとはしない。
ちゃんと、スタジオで曲を聞く。
番組を作る流れは最大限尊重する。
60分番組を60分以下で作ったりはしない。(作って作れないわけではないと思うが)
さて、放送関係者以外はこんな話は面白くないかもしれない。
問題意識がよくわからないとか、結局何が言いたいの?ということになるだろう。
つまり、すべてをデータ化し、それを積み重ねて時間軸の上に構成するだけで、番組は何らかの進化をとげるのかということなのだ。
番組は衰退化しはしまいか。
音楽を収録したり、編曲したりすることに於いては、DAWは某かの進化をとげているのは事実だろう。
或いは、できあがった作品を二次的にハンドリングすることにおいても、その利便性は否定出来ない。
番組と言うのが、こういったデジタル化されたものを組み合わせることによって構成されるとするなら、番組制作形態の進化と言えないわけではない。
しかし、番組は、果たしてデジタルの組み合わせという位置付けで良いのだろうか。
作る側も、聞く側もそれで良いのだろうか。
その作業の中で捨てられて行くものは何か?
それを本当に捨ててよいのか?
一体、番組を制作すると言うのはどういうことだったのか?
失われて行くものの中に、番組の大事なエッセンスはないのだろうか?
明日は、そのあたりをもう少し考えてみたい。
DAWは少なくとも管理者的サイドに立てば、とても有益である、要は制作者サイドに立てばどうなのか、このあたりが重要なポイントであるようなないような、安部邦雄