横文字の氾濫はどうにかならないのか。
そう主張する人が増えはじめた。
何だよ、ソリューションって。
何だよ、セキュリティって。
アウトソーシングって、絶対ほかに言い換えられる日本語あるだろう。
私も時々指摘される。
インセンティブという言葉をしきりに使うからだ。
私は実にこの言葉が気にいっている。
人はインセンティブを感じられるか感じられないかで動く。
仕事の面でも良く働く人は、それだけのインセンティブが働いているわけだし、なまけものと言われる人はそういうインセンティブがさほど働かない人だ。
だから、何だいそのインセンティブというのは?
昔は、損得という言葉で表現したものと良く似ている。
自分にとって、損か得か(利益が得られるかどうかと言い換えても良い)で人は自分の行動を決定していた。
ただ、損か得かでは、イメージが限定される。
損して得とれという言い方もある。
長いスパンで得になればいいのであって、損したことにあまりとらわれてもいけない。
だから、私はインセンティブという言葉を使わざるをえない。
だいたい、私は何故この毎日更新欄を書き続けているのか。
インセンティブはある。
ホームページは無数にあるが、毎日書き続ける人はほとんどいない。
だから、それだけで差別化がはかれる。
それがインセンティブなのだ。
又、書き続けることから、人の脳は微妙に変質して行く。
それは意識してできることではなく、ただ毎日同じことを繰り返すことによって得られるものなのだ。
これもインセンティブ。
いつか、これらが何らかの価値を持つかもしれない。
最大のインセンティブである。
損か得か、利益があるかないか、で表せるものではない。
だから、私はインセンティブを使う。
日本語に訳せと言われても、私には訳すインセンティブは見出せない。
分かったような、わからない話である。
ま、それはそれとして、ある本を読んでいて久しぶりに出会った言葉がカウンター・カルチャー。
60?70年代の若者の反体制文化と辞書には書かれている。
全共闘運動とか、ウーマンリブとか当時は色々あった。
男女共同参画なんて概念が今ではあたりまえになったが、当時は男は男、女は女という生き方の区分があった。
これなどカウンターカルチャーがカルチャー化した1つだろう。
若者文化というのは、常にカウンター・カルチャーとして存在するというのが普通なのだが、最近の若者、残念ながら大した文化を提起出来ないようだ。
2チャンネルなんてのもカウンター・カルチャーといえばそうなのだが、それを推進しているのは必ずしも若者ではない。
変な話だが、私のような団塊の世代の人間があいかわらずカウンター・カルチャーを提起して、若者はもうちょっと弁証法的に人生を考えろと説教しかねない。
いわゆるアウフヘーベン(日本語に訳すと止揚、どちらも死語化しつつある?)だ。
社会にしても、文化にしても、テーゼとアンチテーゼのぶつかり合いの中から、アウフヘーベンされ、新しいテーゼがうまれるというのは否定出来ない事実だろう。
アンチテーゼ=カウンター・カルチャーなのだが、それがなければ、進歩等ありえないことになる。
2chがアンチテーゼであることは確かなのだが、それを推進しているのは必ずしも若者ではないのが残念なのである。
特に、復古調のどこかから借りて来た論理をふりまわす連中とか、やたら民族差別をふりまわして自己満足している連中とか、これがカウンター・カルチャーなら情けない限りである。
テーゼを無視してアンチテーゼは成立しない。
事実を正しく認識するところから、自分達の主張するカルチャーが正当性を持ちはじめるのである。
テーゼの認識が出来ない連中とは議論等成立しないのは自明である。
だから、便所の落書きなどと、非デジタル文化人に揶揄されるのである。
今、必要なのは、未来を期待させるカウンターカルチャーなのだ。
その面でも今の日本はあまりにも心もとないと言わざるをえない。
確かにわからん横文字多いですねえ、またそういう皆がまだ理解しない言葉を使いこなすのがカッコイイと認識されているようで、電車の中づり広告といえば横文字だらけ、行くところ迄行くしかないというのが本当のところかも、安部邦雄