中島らも氏がヤクでつかまった。
人間とは弱いものだ。
ヤクの語り部となりながら、結局そのヤクに自分を売り渡してしまった。
語り部は、一緒に踊ってはいけないということの典型である。
えらそうなことを言いたければ、当事者になってはいけない。
これは政治家も同じこと。
政治とはこうあるべきだとか、経済政策はこうあるべきだとか、いっぱしのことを言いたければ政治家になってはいけない。
大臣になってはいけない。
結局自分が、政治や経済に飲み込まれてしまうのだ。
当事者になるいうことは、傍観者であった時とは、精神の位置が違う。
ヤクを語っているつもりが、ヤクに自分を操られるようになる。
それは人間の弱さでもある。
当事者になると人はとても弱い。
これは私も日々実感していることである。
経営者にも同じようなことがある。
資金繰りに行き詰まりはじめた経営者は、目の視点が定まっていない。
お金に心を奪われているというか、自分の中で煮詰まってしまっている。
「ああ、もうダメだ」と頭を抱える。
そこで、簡単に死を選んだりする。
心を奪われなかったら、死ぬこともなかったのにと思うことも多い。
先日、タクシーに乗った。
深夜で、少し遠いところまで乗ることになったので、運転手さんは半分喜びながら、半分私に愚痴を投げかけて来た。
昨年はタクシーの仲間が100人自殺したんですよ。
もう、みんな借金漬けで、にっちもさっちも行かなくなったんです。
水揚げは上がらない、借金取りは押し掛ける、結局逃げ場を失って身をなげてしまうんですよ。
私は、その人数に驚いた。
自殺者は年間3万人あまり、その内100人がタクシーの運転手というわけだ。
JRの中央線では、今日も誰かが飛び込んでいる。
中央線には、自殺の神様でもついておられるのだろうか。
確かに電車の接近は、ふと飛び込んでみたくなるものがあるのは事実だ。
私もよく、向こうから来る電車を見つめながら、飛び込んだらひょっとしたら気持ちよくなるかもしれない、なんて妄想を抱く。
そんなはずはない、ということは正気ならわかるのだが、変な心理だ。
会社のあるビルのベランダ(11F)に立って、下を見ると、このまま落ちたらどうなるのだろうと何度思ったかしれない。
別に死にたいわけではない。
ただ、「落ちたらどうなるだろう?」ということから、心が離れられなくなるということだ。
好きだった女の子のことを忘れられない、という気持ちに似ている。
そんなもの、いつまでも固執していても仕方がないのはわかっている。
でも、自分の心のバランスがどうにもとれないのだ。
ラブ・イズ・ザ・ドラッグ、ということなのだろう。
ヤクが許されないなら、愛も許されないのだろうか。
曰く不可思議、わが人生。
藤村操という哲学青年が、「人生とは何ぞや。いわく不可解」という言葉を残して日光の華厳(けごん)の滝に投身自殺をしたという話は昔は有名だった、今はどうなのだろう?安部邦雄