論理のための論理というのがある。
何かを証明する為に、ありとあらゆる例を持ち出して来て、一見正しいかのような理屈を述べる人も多い。
最近では、郵便事業の民営化とか、高速道路の建設凍結とかでそんな理屈がまかり通っていたりする。
高速道路なんて、どう考えても無駄だろうと思うのだが、推進派はそうは言わない。
もう建設されることを前提に他の設備を建築した後だ。今さらやめられたら、せっかく作った施設はどうなる?
そんなの勝手に作っただけだろ、と無関係の私なら思うが、おそらく政治家や行政が口約束してしまっていたのだろう。
政治家は、高速道路を作ると公約して選挙に通った、公約を破るようなことはできない、などとも言う。
高速道路を作るのは民意だと言うのだろう。
この場合、大事なことは無駄か無駄でないかということなのだが、そういう土俵には彼等は乗って来ない。
無駄とは何かと言い出し、他の無駄な例を一杯出して来て、議論を混乱させる。
早い話、まともな議論等したくないのだ。
無駄か無駄でないかという客観的指標を作ればそれで済むはずなのだが、それじゃあ理屈で負けるに決まっている。
だから、なるべく客観的な議論をしたくない。
どこかで切れてみるのも一つの手である。
既得権者の抵抗は、自分の生存がかかっているから強い。
何の権利も持っていない人は、あわよくばという気持ちしかないから欲求も弱い。
だめもとで言っているだけで、全存在かけて主張するインセンティブがない。
だから、主張の内容の濃さを客観的指標にすりかえては絶対にいけない。
とはいえ、既得権者の必死さには、普通の人は、「あれだけゆうてはんねから、まあええんちゃいます」なんて気持ちにすぐなる。
結果、既得権者がのさばるだけ。
これまでの日本はずっとそうだったような。
どうせ、公の金なんて、自分の金じゃないと思っているはず。
だから、税金を既得権者がお手盛りで分け合っているのを知っていても、波風立てるだけ損だと言う諦めに変わりやすいのだ。
議論は既得権者をあぶり出す。
だから、私は議論をするのが好きだ。
思惑をおさえて、論理のための論理を振り回す人の表情を盗み見るのも好きだ。
人生至る所にドラマあり。
プロデューサーとして、そういう議論の場にいることはとても有意義である。
議論は、思惑をえぐり出す第一歩であることは間違いない。
今日は何となく禅問答みたいな話になった、建て前と本音の違いというのに似ているかも、ゲーム理論の最大利得の追求ということとも関係ありそう、安部邦雄