寒さがゆるみ、久しぶりに夜のウォーキングに出た。
1分間100メートルのスビードで5キロほど歩く。
単純計算だと50分間歩き続けることになる。
ウォーキングのコースは500メートルごとに標識があるので、自分のペースを作るのにとても便利である。
同じ時間帯には、いつも同じ人が同じように歩いたり走ったりしている。
いつもと同じ犬の散歩にも遭遇する。
いつもと同じことがいつもと同じようにあるのは精神的にとてもいいような気がする。
毎回違うというのが都会生活の特徴であり、それを求めて都会に集まってくる地方の若者がいるが、ある程度の年令になると、むしろ毎回違うことが苦痛になってきたりする。
「今日も又かくてありけり 明日も又かくてありなむ」と島崎藤村は歌ったが、毎日が同じことの繰返しの方が、心の健康にはよいのではないだろうか。
ただ、長い目で見ると同じではないこともある。
私が今の浜田山に移り住んで今年で10年なのだが、いつのまにか見なくなった人も多い。
夜遅く、それも1時とか2時とかに、普段の下着姿(シャツとステテコ)で小走りに走る老人がいた。
年の頃は70代か80代。
小走りなのだがペースは全く変わらない。
私よりかなり速いのだ。
私が走っていると、後ろからパタパタパタパタと音がする。
老人が私の後から走っているのだ。
そして、ハッハッハッハという息遣いとともに私を追い越して行く。
元気でいいな、私もあの年になっても走っていたいな、と何ども思った。
でも、この2?3年、その老人を見ることはない。
どこへ行ってしまったのだろうか。
同じぐらい、思い出深い人がいる。
長身のがっしりとした男性で、いつも雑種の犬を連れ、相当の早足で歩く。
犬の鎖がチャラチャラ音を立てるので、遠くにいても歩いているのがわかるのだ。
とにかく黙々と歩いている。
犬も決して立ち止まらす、修行者のようにただ歩き続けていた。
それが何年か続いて、次第にスピードが落ちてきた。
犬が時々休みはじめたのだ。
それでも、少し休むと犬は「旦那、もう大丈夫です。行きやしょう。」とばかり又いつものペースで歩き出す。
ああ、犬も老いたのだな、と同情したりした。
今は、その犬と出会うことはなくなった。
飼い主の男性はたまに一人で早足で歩いているのに出会うが、前ほどの勢いはない。
犬をなくして、気落ちしているのがこちらにも伝わってくる。
年々歳々花相似たり、年々歳々 人同じからず。
今年もまもなく桜の咲く季節が来る。
思い出ばかりが、この道に降り積もって行く。
外は風も強く、花粉も死ぬほど飛んでいるようだ、おちおち散歩もできなくなったとお嘆きの昨今である、安部邦雄