ふと思った。
この更新欄は、まるで兼好法師の「徒然草」ではないかと。
ちょっと斜にかまえた論評を、日常の風景と重ね合わせながらなんだかんだと書き連ねる。
そこそこの読者の方が恒常的におられるのは、おそらくそういった徒然草的なオッサンのぼやきが面白いからなのかもしれない。
へ?、そんなことあったの?
それで、だからどうしたというの?
なーんだ、そんなことどうでもいいことじゃない。
結局、あんたは何を言いたいの?
これは別に読者の方の感想を書いたわけではない。
私の「徒然草」への感想を書いたのである。
知ったかぶりしたいだけちゃうの?
おお、究極的な一刀両断の指摘。
でも、「徒然草」って、本当にこんな話が多い。
何が、先達はあらまほしきことなり、だ。
などと言いながら、皆さんの感想もおそらくこのへんではないかと。
畏み、畏み、申し候。
確かに、この更新を書くには、「心にうつりゆくよしなしごと」がなければ不可能だ。
何を書いていいかわからない時も多いのだが、結局この「よしなしごと」がないから何も書けないわけである。
心というか、脳というか、その中が空疎では、この欄は埋められない。
最近は、物言わぬは腹ふくるるわざなれ、という気分ではない。
むしろ、腹がなかなかふくらまないのが苦痛になったりする。
連休の頃の、交通違反2連発みたいなことがあれば、あっという間に腹がふくれるのだが、何も起こらなければ、自分で何を作るしかなくなってしまう。
自分的には、トラブルや悩みごとが次々に発生してはいるが、それはこういうところで公にすることではないだろう。
私の悩みはこうこうでおます、なんて不用意にいったら、自分の弱点をさらしているようなものだ。
又、それを逆手にとられて、どんな風評を流されるか分かったものではない。
ま、そういうことで、究極的にはめざせ!徒然草、なのかもしれない。
実は、どこかで兼好法師に憧れているというのも、事実なのだろうと思うのである。
業平の次は、兼好法師か、その次は鴨長明?いいえ、私はああいう本物の世捨て人にはなれそうにもありません、安部邦雄