昔からそうなのだが、どうも私への要望というか、何とかしろよ、みたいな話が多い。
言い換えれば、今の状況をあんたの力で何とかしろよ、ということ。
ついでに今の状況がどう悪いかを具体的に指摘される。
気が滅入る私。
そんなの私がしなきゃならないことですか?
私には今の状況を維持するのが精一杯なのですが。
本音はまさにその通りなのだが、お願いされたらイヤだと言いにくい私、とにかくどうしたらいいのか、しばらく考える。
どうにもならんなあ。
何故、どうにもならないか、を考える。
私に、世の中を変える力はない。
前にも書いたが、オレ達はただの魚なのだ。
川の流れを変えろと言われても、それは最初から無理な話なのだ。
何故なら、自分も又川の流れの中で日々生きているからだ。
その流れは、生きる為の前提ではないか。
その流れが悪いからといって、流れを変えようなんて思えば、下手したら自分が死んでしまう。
で、思う。
私にどうしろと言うのですか?
確かに努力すれば、川の流れを変えようという動きは作れるかもしれない。
でも、それは川の流れが変わるということと同義語ではない。
お前ごときが、魚の分際で、何を偉そうに、と言われるのがオチ。
それで体力を消耗し、命をすり減らして、一体私にどんな利益があるというのですか。
何だ、これは宮沢賢治の「グスコーブドリの伝説」じゃないか。
寒波で難渋している人々を救う為に、自らの命をかけて火口に入り、火山を爆破させる。
それで人々は救われ、ブドリは英雄と崇められる。
しかし、ブドリは死んでしまった。
英雄になったブドリ、でも、それで彼は納得できるのか。
ついでにこの構図、旧日本軍の特攻隊と同じだ。
残念ながら、こちらは人々を救うことはできなかったが、命をかけて、隊員は国民の為に戦ったわけだ。
で、国はこれで彼等を納得させられたのか。
靖国に祭るだけで、特攻隊員達は満足なのか。
ブドリにしても特攻隊員にしても、どこか納得出来ないところが残りはしまいか。
OK、確かにそれを行うことはとても重要だし、誰かがやらないといけない。
それで、皆が仕事がやりやすくなる、ひいては地域の文化の発展に寄与するのなら、大賛成だ。
ただ、一つ、100%納得し切れないことがあるんだ。
それを実行するのは、何故私なんだ、と。
他にも人は色々いるし、当事者だって一杯いる。
私が果たして当事者か?
私はもうその事態とは関係ない場所にいるのです。
そんなことまで、私がやらなければいけないのでしょうか。
単なる出しゃばりではありませんか。
お前には関係ないと言われるだけではないですか。
私に今さらどんな権限があるというのでしょうか。
人間関係で、傷つくのは私です。
傷ついた私に、一体、どんな癒しがその後、待っていると言うのでしょうか。
さて、長々と引っぱってまいりました今日の更新。
つまりは、私がかって所属していた放送局の立て直しに関する話なわけです。
そんな立場にいるわけでもないのだが、そんな声が私のまわりで次第に大きくなっている。
本当、私にどうしろと言うんだろうなあ。
改革を叫んで伏魔殿に飛び込んだ竹中平蔵大臣、今やぼろぼろ、ペーパードライバーなんて揶揄されて、よく耐えていられるものだ、あげくはお前は国会議員じゃないから、黙ってろとまで言われている、何か私も下手に動けば同じようなことを言われそうだ、安部邦雄