必死、必ず死ぬこと、どひゃー。
ま、そうなんだけど、普通は死にものぐるいで努力することをさす。
必死で仕事をするとか、必死の思いで?する等というように使う。
ハングリーという言葉と関係ありそうだ。
自分には必死さが足りないと、最近思う。
これはハングリーさが足りないとも表現できる。
ハングリー、つまり飢えていればこそ、生きる為の努力を必死になってするわけだ。
だらだら生きる余裕があるなら、それはハングリーなどというものではない。
本当にハングリーとは、食べるもの、飲むものがなく、命が危ないという状況である。
脳であれこれ思いを巡らしている状況では、ハングリーとは言えない。
脳のもっと奥の方、本能的な部分で飢えていること、それがハングリーなのだろう。
とはいえ、ハングリーというのは必ずしも肯定的な意味ばかりではない。
飢えているというのと、ハングリーじゃニュアンスも大分違う。
飢えている:何かいやらしい、見てくれも悪いし、イメージ的に不快。
ハングリー:人間、どこかハングリ?でないといけない、ハングリーさが足りない、等と言う。
つまり、必死もハングリーも、ビジュアル的には肯定イメージでないと社会的には受け入れられないようだ。
そういえば、2chで「○○、必死だな」なんて揶揄したフレーズが良く使われるが、これなど必死さのマイナスイメージを表している。
だけど何度もいうけど、昔からの日本語って大切にされないよなあ。
何で、横文字だと、マイナスイメージじゃないんだろう。
汚い奴、汚いやり方、というよりも、ダーティな奴、ダーティなやり方と言った方が、かっこよかったりする。
糞野郎!というよりも、ファックユーの方がカッコよかったりして。
これなど、放送禁止用語だと知らない日本人もたくさんいるみたいだし。
閑話休題。
自分の反省課題として、もっと自分自身に必死にならないといけない、と思っている。
世渡り上手になっても、それは生きることにおいて少しも本質的なことではない。
何だ、世の中なんてこんなものか、ちょろこい、ちょろこい。
貴方の周りがたまたまちょろこいだけなのである。
世の中は、本来そんなに簡単なものではない。
必死さがなければ、本当の自分とは向き合えないような気がする。
自分の弱点や劣等感と真正面から向き合うことが嫌さに、人生への必死さを失いかねない人も多い。
余裕かましている場合ではない。
必死さのかっこよさを身につけないといけない。
かっこ悪い必死さしか表現出来ないなら、結局、間違った必死さしか会得していないということだ。
ま、それでもいいのなら、どうぞご勝手にではあるが。
何か求道者みたいことを書きはじめたわけだが、とにかく適当に自分と妥協している間はダメということだ、ああ、ダメなオレ、安部邦雄