加藤登紀子の『この空を飛べたら』の一節に、「ああ 人は昔々 鳥だったのかもしれないね こんなにも こんなにも
空が恋しい」というのがある。
人間はいつも、今の自分がどこか不完全で、元々は自然の中から産まれたのだから、自然に還ることによって初めて安定するのではという期待を持つ。
自然と一如となることによって、本当の自分を取り戻せるのではと思う。
空を見ていると、飛んでみたいという気持ちに襲われる。
この気持ちは、きっと太古の昔、空を飛ぶことによって自己実現をしたいと思った生物の素朴な心が、今に投影されているからではないだろうか。
どこか、あの時のスライトな記憶が、DNAの中に残っているのではないか。
そうでなければ、こんなに空が恋しいわけはない。
詩人(この場合は中島みゆき)のたわ言にすぎないと言われればそれで終わりだが。
確かに何十億年の生物の歴史が、今の私たちの身体の中に残っていないとは言い切れない。
人間は自然の中から発生し、産まれた途端に自然から疎外され、そして死を迎えることによって、又自然へと戻る。
人間が生きている時間と言うのは、確かに自然から思いきり疎外されている状況であることは事実だ。
思い出してみよう。
自分が子供の頃、まだ世界のほとんどが未分化だった頃、私達は自然の中で、意識することなく生きていた。
冬は寒いとか、夏は暑いとか、そういうことを言葉で表現する必要もなく、朝8時に起きるとか、夜、何時に寝るとか、そんなこと深く考えることもなく、自分の中の自然が命ずるままに生きていた。
でも、人は、時間が経つと共に、少しずつ自然から切離される。
世界を言語化し、自分を客観化し、生産活動を行うことによって、世界を自分の思うように変えようとする。
自然は自分の思いのままに変えられる。
人間の英知は、すべてを可能にする。
世界だって、自分達の力で、いくらでも変えられるのだ。
脳はそう思う。
今はできなくとも、いつかは絶対にできると思う。
思えば思うほど、私達は自然から疎外される。
考えなければ、生きて行くことができなくなる。
努力しなければ、日々生産活動に従事しなければ、変容させた自然を維持することもできない。
まるで聖書の「ソドムとゴモラ」の世界。
自然は長い時間をかけて、そんな人類の小賢しき英知を駆逐するだろう。
所詮、自然にとっては人間の所業等、ひとときの徒花にすぎないからだ。
人間は、人間として生物界に君臨しようと思えば、常に自然からは疎外された存在なのだ。
自然とともにあれば、悩みもなければ不安もない。
自然な喜怒哀楽があり、自然な人の生き死にがあるだけ。
心の病に苦しむこともなければ、死への恐怖も訪れはしない。
人間以外に、そんなことに悩む生物はいるか?
人間だけが、自然との絆を断ち切られ、疑似自然を作りながら、いつかはそれらも自然によって影も形もなくなるだろう。
脳内世界ばかりが、膨張してしまった我ら人類。
詩人は、自分の心の中を覗き込みながら、辛うじて、記憶の欠片をつまみだす。
ああ 人は昔々
鳥だったのかもしれないね
こんなにも こんなにも
空が恋しい
恋しいのは、自然すべてだろう。
海も、山も、現実には私達を包み込むことはない。
パンドラの箱の底に残った希望だけで、私達はこれからも生きて行くことができるのだろうか。
自然を自分達の欲望に合わせることにより、人は発達したのかもしれない、でも、悩みながら迷いながら生きる運命をそこで選択したのは、偶然なのか、必然なのか、本能はどんどん壊れてしまった後だしね、安部邦雄