気が重い、すなわち憂鬱なのである。
心が晴れないというか、気分的にもふさぎ気味。
大正期の詩人が多用したのが、この憂鬱という言葉。
漢語そのものというか、大和ことばの優しさはここにはない。
状況を否定し、それを変えようとするのだが、どこにもその突破口がないという、そんな精神の迷いを「憂鬱」という言葉に託したのだろう。
毎日、新聞を見ていると、みるみる憂鬱な気分に襲われる。
今頃、辻元さんを逮捕するか?
戦場のイラクへ、自衛のためにしか使えない軍隊をよく出せるものだ。
味方は誰?敵は誰?
一体、俺たちは誰を信じればいいのだ。
市中引き回しをするなら、やってみればいい。
いい見せ物になるだろう。
公開死刑を行えばいい。
人が死ぬとは何かがよくわかるだろう。
きれいごとばかりでは世の中は渡れない。
学校は処世術を教えないが、社会へ出れば、そんなことだらけ。
だったら、学校は生き延びるための処世術を教えるべきだ。
善への崇拝を教えながら、結局は悪ばかりがはびこるだけではないか。
純粋に生きるための突破口がない。
だから、純粋であることをあきらめ、生きるタクティクスを修得するしかなくなる。
おそろくしく憂鬱なる、とは萩原朔太郎だったか。
人はあまりに弱く、その弱さの裏で憎悪の炎がちらちら燃えている。
炎はいつか、暴力や殺意となって社会に広がって行く。
常に憂鬱の影で、悲劇は積み重なって行くのだ。
何ゆえにぼろぼろの駝鳥を我々は見るのか。
商人となり、日々算盤勘定にあけくれ、資金が枯渇するのではないかとうろうろするハイエナ。
身体には疫病がしのびよるというのに。
子供達は日曜日には憂鬱になる。
そのフレーズが、心の奥でゆれている。
最近、感性が刺激を受け、理性的な話は面倒で仕方がない、友人は癌で声が出ず、身内は常に健康不安に苛まれている、金ばかりが羽をつけて、外へどんどん逃げて行く、今我が家を出て行く、小金たちよ、お前たちの故郷はここなのだ、いつか大きくなってまた帰っておいで、お願いだから、安部邦雄